◆満州事変から太平洋戦争終結までの無謀な戦争
日本は、1931年の満州事変から1945年の終戦までの「15年戦争」において、中国、アメリカ、イギリス、ソ連などの大国と戦いつづけ、さらに他の多数の国を巻き込み戦争を続け、日本人だけで数百万人の犠牲者を出した。
昭和の日本が無謀な戦争を続けた原因を考え、今の日本と比較し、同様なことが発生しないかを考えることは大変重要である。
日本の戦争の分岐点
満州事変⇒国際連盟脱退⇒ドイツ・イタリアと接近
日本は満州事変により国際連盟で反発を受け孤立し、1933年に国際連盟から脱退し、同時期に国際連盟から脱退したドイツ・イタリアに接近した。中国とは、満州事変以降、1945年の終戦まで戦争を続けた。
▲松岡外務大臣が日本の正当性を主張したが受け入れられず国際連盟を脱退
日独伊三国同盟⇒さらにソ連に接近⇒米英と敵対
日本は日独伊三国同盟を締結し、さらにソ連に接近し日ソ中立条約を締結した。これによりアメリカの反感を買い、屑鉄・石油の輸出禁止という制裁を受けた。
▲まさかヒトラーと手を組むとは・・・
▼まさかスターリンと手を組むとは・・・
日本と米英が開戦
アメリカから屑鉄と石油の輸出を止められた日本は、ついに日米英開戦に踏み切った。真珠湾攻撃からの開戦直後は連戦連勝で領土を広げたが、ミッドウェイ海戦の惨敗からは一度も立ち直れず、連戦連敗が続いた。
▲真珠湾攻撃から最初の半年間は日本の優勢だった。
ソ連に和平の仲介を期待⇒ソ連の満州侵攻
敗色濃厚となった日本は、終戦に向けて、ソ連の仲介に期待していた。しかし、ソ連は日本と締結していた日ソ中立条約を破棄し、満州・南樺太・千島列島に侵攻した。日本は日露戦争で獲得した領土をソ連に奪われた。
いかに悲惨な戦争だったか・・満州事変から終戦までの戦いと犠牲者
日本は満州事変から終戦までの「15年戦争」で数百万人の犠牲者を出した。
無謀な戦争を米英に仕掛け、最初の半年間は勝っていたが、ミッドウェイ海戦以降は何度も何度も何度も負け続けた。補給が不十分な無謀な戦闘を何度も何度も決行し、日本中が大空襲を受け犠牲者が増え続けても戦争をやめず、沖縄の制圧を許し、原子爆弾を2発落とされ、ソ連の満州侵攻を受け、ようやく日本政府は降伏した。
▲大空襲で焼け野原になった東京
戦争の経過・犠牲者数等
※[ ]=日本の戦争による犠牲者数
満州事変⇒アメリカ反発⇒ドイツ・イタリアと接近
1931年 9月18日・・柳条湖事変⇒満州事変[2,000]
1932年 1月28日・・第一次上海事変[6,000]
1932年 5月15日・・五一五事件
1933年 2月24日・・国際連盟からの脱退を表明
1936年 2月26日・・二二六事件
1936年11月25日・・日独防共協定
1937年 7月 7日・・盧溝橋事件⇒北支事変
1937年 8月13日・・第二次上海事変⇒日中戦争[400,000]
1937年11月25日・・日独伊防共協定
1939年 7月26日・・アメリカが日米通商航海条約破棄通告(翌年1月失効)
日独伊ソ四国同盟構想
1939年 8月23日・・独ソ不可侵条約締結
1939年 9月 1日・・ドイツがポーランド侵攻(第二次大戦勃発)
1940年 6月14日・・ドイツがパリ制圧
1940年 9月23日・・日本が北部仏領インドシナ進駐
1940年 9月27日・・日独伊三国同盟締結
1940年10月16日・・アメリカが屑鉄禁輸
1941年 4月13日・・日ソ中立条約締結
日独伊ソ四国同盟構想の挫折・日米交渉が不調
1941年 4月16日・・日米諒解案交渉
1941年 4月22日・・日米諒解案修正協議
1941年 6月22日・・独ソ開戦
1941年 7月28日・・日本が南部仏領インドシナ進駐
1941年 8月 1日・・アメリカが石油全面禁輸
1941年11月26日・・日米交渉決裂
日米英開戦⇒連戦連勝・領土拡大
1941年12月 8日・・○マレー作戦[3,000]
1941年12月 8日・・○真珠湾攻撃[60]
1941年12月 8日・・○フィリピンの戦い[4,000]
1941年12月 9日・・○香港の戦い[700]
1941年12月10日・・○マレー沖海戦[18]
1941年12月20日・・○アメリカ西海岸攻撃・貨物船・艦船破壊
1942年 1月11日・・○蘭印作戦[300]
1942年 2月24日・・○アメリカ西海岸攻撃・製油所破壊
1942年 3月 8日・・○ビルマ・ラングーン占領
ミッドウェイ敗戦⇒連戦連敗・敗色濃厚
1942年 6月・・×ミッドウェイ海戦[3,000]
1942年 8月・・×ガダルカナル島の戦い[24,000]
1944年 3月・・×インパール作戦[50,000]
1944年 6月・・×マリアナ諸島の戦い[60,000]
1944年10月・・×レイテ沖海戦[10,000]
1944年11月・・×本土空襲[560,000]
1945年 2月・・×硫黄島の戦い[21,000]
アメリカの日本本土攻撃⇒敗戦
1945年 3月26日・・×沖縄地上戦[100,000]
1945年 4月 5日・・ソ連が中立条約破棄通告
1945年 8月 6日・・×広島に原爆投下[140,000]
1945年 8月 9日・・×長崎に原爆投下[80,000]
1945年 8月 9日・・×ソ連が南樺太・千島列島・満州侵攻[80,000]
1945年 8月15日・・×日本が無条件降伏表明⇒ソ連以外の国が停戦
1945年 9月 2日・・降伏文書調印
1945年 9月 5日・・ソ連が停戦
※○=勝利,×=敗戦,[ ]=犠牲者数(推定)
※日付は戦争が始まった日付を記している。
※犠牲者数は様々な資料・数値があり正確に把握するのは困難であるため、一般的に多く使われている数値を使っている。
※日中戦争では、最後まで日中間で直接の決着はつかず、1945年8月に日本が連合国に降伏表明したことにより連合国側の中国に負けたと解釈される。
※原爆の被害者は原爆投下直後の犠牲者数を示している。戦後、被爆が原因で亡くなった方は数十万人に及ぶ。
※終戦後のシベリア抑留では約6万人の犠牲者があったといわれている。
◆無謀な戦争をした原因
昭和の日本が無謀な戦争を行った原因としては、以下の4つが考えられる。
【1】政治体制の欠陥「統帥権独立」「帷幄上奏権」「軍部大臣現役武官制」
【統帥権独立】陸軍の参謀本部・海軍の軍令部は天皇の直属であり、統帥権は内閣から独立した組織とされた。
【帷幄上奏権】軍部が内閣や議会を通さずに天皇に上奏することが認められた。
【軍部大臣現役武官制】軍部大臣に現役の将官が就くことになっていた。
この3つの権限により、軍部が天皇の名のもとに独断で方針を決定することが可能であった。
軍部は天皇に直接上奏し決裁を受け、内閣は軍部が決めた方針を達成するための予算を認めなければいけなかった。
内閣が軍部に逆らうと、軍部は軍部大臣を辞めさせ、後任の軍部大臣の推薦を拒否した。軍部大臣がいない内閣は成立しないため、内閣は軍部の要求に従うしかなかった。
※統帥権:軍を指揮する権限
※上奏:天皇に直接お会いして提案などをすること
【2】外交の失敗・・天皇の意に反し開戦し天皇に降伏表明をさせた
昭和初期からの日本政府の指導者達は、国の行く末を左右する重要な分岐点で、数々の致命的な誤りを犯した。
日米開戦に反対だった天皇の意に反し、日本をアメリカとの開戦に導いてしまった。
日本の戦闘能力が失われ、敗戦しか無い状況となっても、どの政治家も終戦の決断をしなかった。最終的には天皇に降伏の表明をさせた。
【3】情報統制・日本国民の熱狂・戦争依存症
大本営の情報統制
戦時体制で設置された大本営は、検閲を行い、マスコミに圧力をかけ、軍部に都合の悪い報道を禁止し、都合の悪い事実が国民に伝わらないようにした。
マスコミは「真実の報道」よりも「儲け主義」を選択
マスコミは、軍部が言うとおりに嘘の報道をした。報道会社は、国民に「真実の報道」をすることよりも、戦争報道により売り上げを増やす「儲け主義」を選択した。
日本国民の根拠がない熱狂
「長いものに巻かれろ」という傾向を持つ日本国民は、軍部やマスコミの嘘の報道に疑問を持たず、何も考えず、「根拠がない熱狂」をするだけだった。
戦争が良い事だと思い込む「戦争勝利病」
1894年の日清戦争勝利、1904年の日露戦争勝利、1914年の第一次大戦勝利、と戦争に勝利することが続き、そのたびに領地獲得と経済活性化があったという「成功体験」から、戦争が良い事のように思い込む「戦争勝利病」となった。
日本国民は、日本本土を攻撃される経験が一度もなかったため、戦争の悲惨さを体感していなかった。
死なないポジションの戦争指導者が机上演習・戦術研究に夢中になる
戦争の方針を決める戦争指導者たちは、戦地で闘わないポジションの人達であり、自分は戦争で死ぬ可能性がない人達である。
彼らは「机上演習」により戦略を練り、「戦術研究」で机上の論理で勝利を目指し、将棋の駒の様に兵士を次々と戦地に送り込んだ。
戦争指導者の「戦争依存症」勝つと「もっともっと」負けると「今度こそ今度こそ」
戦争指導者たちは、机上の「戦争ゲーム」に夢中になり、勝ったときは「もっともっと」と拡大させ、負けたときは「今度こそ今度こそ」とさらに拡大させ、戦争をやめられなくなる「戦争依存症」となった。
◆3つの原因は現在にはないのか
戦争の原因を論理的に考える
引き続き、この3つの原因の一つ一つを掘り下げ、昭和の無謀な戦争に至った原因について、論理的に組み立てながら考えることが重要である。
3つの原因は現在には当てはまらないか
3つの原因を論理的に考えたうえで、それが現在には当てはまっていないのかを考えることは大変重要である。