アントニオ猪木「7の相手に9の力を出させて10の力で勝つ」
アントニオ猪木は無名なレスラーをスターに育てた
新日本プロレス設立当初、創設者のアントニオ猪木は、なかなか有名な外国人を呼べなかった。
アントニオ猪木は、それほどスターとはいえなかった外国人を招聘し、自分が試合で相手をすることにより育成した。
猪木と戦うことによりスターとなった選手としては、タイガージェットシン、スタンハンセン、ハルクホーガンなどが有名である。
タイガージェットシン
▲タイガージェットシン
初来日は1973年5月であった。フェンシングのサーベルを振りかざしながら入場した。
元々は正統派レスラーだったが日本ではヒールとなり、アントニオ猪木と向かい合ったときに狂気が引き出された。
アントニオ猪木と倍賞美津子夫婦を新宿伊勢丹前で襲って一般世間も騒がせた。
スタンハンセン
▲スタン・ハンセン
新日本初参戦は1977年1月であった。テンガロンハット、ベスト、ブルロープというカウボーイスタイルで入場した。
当初はパワーだけの選手だったが、猪木と試合をすることにより独特のリズムが生まれ、「ウエスタンラリアットをいつ出すか」という緊張感で観客は息をのんだ。
ハルクホーガン
▲ハルク・ホーガン
初来日は1980年5月であった。
外国人エースとして徐々に頭角を現し、1983年のIWGP決勝リーグ戦で猪木にKO勝利した。
猪木が舌を出して失神した姿がニュースとなり一般世間でも注目を集めた。
その後、アメリカで活躍し、プロレス史上でこれ以上ないほどのスーパースターとなった。
新日本プロレスの上昇は、テレビ放映開始、斬新なアイデア、アントニオ猪木が育てた外国人スターの活躍が大きかった
新日本プロレスは、1973年4月に坂口征二が新日本プロレスに移籍し、NET(テレビ朝日)が新日本プロレスの中継番組を開始した。
新日本プロレスにとって、テレビ放送開始は大いに力となった。
しかし、当初は、アメリカの外国人スター選手は全日本プロレスが押さえていたため、新日本プロレスにはなかなか来なかった。
前述したように、アントニオ猪木は自分が相手をすることにより外国人を育成し、テレビで雄姿を飾る外国人スターを育てた。
新日本プロレスがプロレス界のトップに立った理由は、「テレビ放映開始」「斬新なアイデアによるヒット作」「外国人スターの育成」があげられる。
相手の良いところを引き出しながら勝つ
アントニオ猪木は、創設した新日本プロレスを上昇させるため、常に観客がヒートアップするものを提供し続ける必要があった。
そのためには、アントニオ猪木と敵対する強くて怖い存在が必要だった。
しかし、すでにスターである選手を招聘するのが困難であったため、パワーがありながら無名の選手をリングに上げ「相手の好いところを引き出しながら勝つ」という高度なことをする必要があった。
そのことを表現したのが以下の言葉である。
アントニオ猪木「7の相手に9の力を出させて10の力で勝つ」
また、同じ様な意味のことをこのような表現がされることもあった。
アントニオ猪木「箒が相手でも良い試合ができる」
プロレスは超高度な真剣勝負である
プロレスは、観客からお金をいただいて、わざわざ来ていただいて、リングで試合を見せるのである。
「観客を満足させて、また次も観たいと思わせて、そのうえで勝つ」これがプロレスの勝利である。
プロレスの勝利を目指すには、「育てながら勝つ」という高度なこともしなければならないのである。
プロレスは超高度な真剣勝負である。