■大仁田厚‥
◆長崎県出身
◆1957年10月25日生
◆181cm100kg
◆全日本→FMW→フリー
大仁田厚の略歴
全日本プロレス新弟子第1号として入門しプロレスデビュ-
1973年、全日本プロレスに新弟子第1号として入門する。
1974年4月、プロレスデビューする。
1981年、海外修行に出る。
1982年3月、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得する。
「炎の稲妻」と言われ人気が出る
帰国し全日本プロレスのリングで、ジュニア王者として防衛戦を行い、無骨で荒々しく感情剥き出しなファイトスタイルで人気が出て「炎の稲妻」と言われる。
怪我により引退(1回目)
1983年4月、試合中のけがで欠場する。
1985年1月、怪我により引退する。
タレント活動をするが長続きせず
タレントになり、小松正雄に弟子入りするが、長続きしなかった。その後、様々な職を転々とする。
プロレス復帰(1回目)
1988年、ジャパン女子プロレスのコーチとなったが、同じくコーチをしていたグラン浜田との遺恨が生まれ、リング上での決着をつけるためにプロレス復帰する。
UWFで門前払いの屈辱
新団体・第2次UWFの会場で顔パスで入場しようとしたが、チケット提示を求められ、屈辱を受ける。
新団体FMWを旗揚げ
1989年、パイオニア戦志のリングに上がり、剛竜馬と対戦する。その後、青柳政司と対戦する。
1989年10月、新団体FMWを旗揚げする。
デスマッチを考案し大ブレイク・プロレス大賞MVP
1990年8月、ターザン後藤と対戦したノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで大ブレイクする。1990年のプロレス大賞MVPを獲得する。
1991年、日本テレビ「天才・たけしの元気が出るテレビ」で大仁田のプロレスが紹介され、ダチョウ倶楽部の上島竜兵がものまねをしたため、一般世間でも有名になる。
1994年11月、新高輪プリンスホテルで、「縫合個所1000針突破記念パーティー」を開催する。
引退記念ツアーを行う・FMWを離脱
「このままデスマッチを続ければ本当に死んでしまう」という理由で、引退記念ツアーを行う。
1998年11月20日、横浜文化体育館の試合を最後にFMWを離脱する。
新日本プロレスで「大仁田劇場」
新日本プロレスのリングに上がり、テレビ朝日の真鍋アナウンサーとコテコテの「大仁田劇場」を展開し、蝶野正洋や長州力を巻き込んだ。
現役復帰・引退を繰り返す
現役復帰・引退を繰り返しながら、常に話題づくりをしている。「プロレス卒業試合」「還暦電流爆破を持って一線を引く」「生涯現役」など、発言に一貫性がなく、引退を口にしても誰も信じない。
全日本プロレスに参戦
2016年11月、渕正信と組み、アジアタッグ王座を獲得し、第100代王者となる。
ジャイアント馬場との絆
全日本プロレス時代にジャイアント馬場の付き人を務めた。馬場は妻の元子とともに大仁田を可愛がり、養子にすることも検討していた。
大仁田が馬場のショートタイツを忘れてしまい、馬場に内緒で別の人のショートタイツを拝借し馬場に履かせ、無事に試合が終わったもののばれてしまった。馬場からはかなり怒られ、空手チョップを受け、何日も口をきいてもらえなかった。その後、再び馬場の服を忘れ、正直に告白し土下座して謝ったところ、馬場は何も言わず、巡業中は団体のジャージで過ごした。
大仁田はこれについて「馬場さんに人として大切なことを教わった」と述べている。
ジャイアント馬場は、全日本プロレスを離れた人との関りを嫌う面があったが、大仁田の場合は違っていた。FMW創立後に、FMW所属選手のハヤブサを全日本のリングに上げることを許されている。(※大仁田は全日本所属のときに引退したのであり離脱したわけではない)
政治活動
2001年7月、自民党の参議院議員となる。
2005年8月8日、自民党総裁・小泉総理が推進する郵政民営化に反対し、郵政民営化関連法案採決を棄権した。
2006年、参議院自民党副幹事長となる。
獲得したタイトル
アジアタッグ王座
NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座
AWA南部タッグ王座
WWA世界ブラスナックル王座
WFDA世界マーシャルアーツ王座
WFDA世界マーシャルアーツタッグ王座
世界ブラスナックル王座
世界ストリートファイト6人タッグ王座
ボブワイヤーストリートファイト6人タッグ王座
爆破王
爆破王タッグ