■ブルーザーブロディ‥
◆アメリカ・ミシガン州・デトロイト出身
◆1946年6月18日生
◆198cm140kg
◆テキサス州立大学→NFL→NWAビッグタイムレスリング→WWWF→全日本→新日本→全日本
◆真壁刀義のギミックの元祖
ブルーザーブロディの略歴
テキサス州立大学でフットボール選手として活躍する。
1968年、NFLで約3年間活躍するが、膝のけがで引退する。
1973年、フリッツ・フォン・エリックのスカウトでプロレスラーになる。
1974年、スタンハンセンとタッグを組む。その後、全日本プロレスで再びタッグを組む。
1975年10月、NWAウエスタンステーツヘビー級王座を獲得する。
1975年12月、NWAフロリダヘビー級王座を獲得する。
1976年7月、WWWFに参戦する。ブルーノ・サンマルチノ、アンドレ・ザ・ジャイアントとともにメインイベンターとなる。
1979年8月、ディック・ザ・ブルーザーに勝利し、WWA世界ヘビー級王座を獲得する。
全日本プロレスに参戦
1979年、全日本プロレスに参戦する。このころから全日本プロレスの常連となる。
1981年10月、ドリーファンクジュニアに勝ち、インターナショナルヘビー級王座を獲得する。ドリーファンクジュニアの息子にニードロップを放つというような強烈な凶暴性を見せる。
1982年、新日本プロレスから移籍したスタン・ハンセンと再びコンビを組み、「超ミラクルパワーコンビ」といわれる。
1984年、PWF世界タッグ王座の初代チャンピオンとなる。
新日本プロレスに移籍するが永久追放
1985年3月、新日本プロレスに移籍する。テレビ朝日では、ブルーザーブロディ移籍について「世界一のプロレスラーが新日本プロレスにやってきます!!」というような紹介をしていた。
1985年12月、ジミースヌーカと組みIWGPタッグリーグ戦に出場し決勝に進出していたが、決勝戦をボイコットし新日本プロレスから追放となった。
1986年、新日本プロレスと和解し再び参戦するが、11月に来日予定を突然キャンセルし永久追放となった。
全日本プロレスに復帰
1987年、全日本プロレスに復帰する。
1988年3月、ジャンボ鶴田からインターナショナルヘビー級王座を奪回する。ブロディのキャラクターとしては珍しく、このときはファンと共に喜びを分かち合う雰囲気となった。
プエルトルコで死去
1988年7月16日、プエルトルコでブッカーのホセ・ゴンザレスと口論して喧嘩となり、腹部を刺されてしまう。
1988年7月17日、出血多量で死亡する。42歳であった。
獲得したタイトル
NWAトライステート
NWA USタッグ王座(トライステート版)
NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座
NWAビッグタイム・レスリング
NWAテキサス・ヘビー級王座
NWAテキサス・ブラスナックル王座
NWAテキサス・タッグ王座
NWAアメリカン・ヘビー級王座
NWAアメリカン・タッグ王座
WCWA TV王座:1回
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
NWAフロリダ・ヘビー級王座
セントラル・ステーツ・レスリング
NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座
NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座
ワールド・レスリング・アソシエーション(インディアナポリス)
WWA世界ヘビー級王座
サウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング
SCWサウスウエスト・ブラスナックル王座
SCW世界タッグ王座
インターナショナル・ヘビー級王座
PWF世界タッグ王座
ブルーザーブロディの人物
◆リング上では"超獣キングコング"を演じ、ハチャメチャに暴れまわり、観客を恐怖におとしいれていた。これは、観客に強烈な印象を与えるためのギミックであり、記憶に強く残るようにするためだったと本人は語っていた。「ブロディの実際の試合運びは緻密だった」とジャイアント馬場とジャンボ鶴田は言っていた。ブロディは「プロレスはチェスのようなもの」と言っていた。
◆日本人の敵のようなキャラクターだったが、日本人レスラーに対してもアドバイスをしていた。武藤敬司は「ブロディからのアドバイスは的確だった」と述べている。「ザ・グレートカブキ」が誕生したきっかけは、高千穂明久にダラス転戦とヒール転向を進めたことであった。これがなければ、「グレートカブキの息子=ザ・グレートムタ」もなかった。
◆プロレスラーの好き嫌い、認める認めないのギャップが激しかった。ジャンボ鶴田の無尽蔵のスタミナには敬意を表して認めており、鶴田との対戦前に減量して臨むほどであった。天龍源一郎が相手の技を受けてぶつかり合う点も認めており、天龍とはお互いにぶつかりあって迫力のある勝負をした。しかし、嫌いなレスラーのことは全く認めず、相手の技は受けず、一方的にボコボコにしようとした。ミルマスカラスや長州力のことは嫌いだったようである。
◆プライドが異様に高く、自分をトップとして扱わないプロモーターは認めなかった。自分の扱いに不満があると、理不尽な要求をしたりボイコットしたりした。アントニオ猪木は、2回も試合をボイコットされ、ひどい目に合っている。ジャイアント馬場に対しても、新日本プロレスの引き抜きに応じるという裏切り行為をしたが、その後、ジャイアント馬場は信頼できる人物だったと反省し、裏切ったことを後悔したという。