■中邑真輔は少年時代からプロレスファン
中邑真輔は、少年時代からプロレスファンであった。
中学卒業時にプロレスラーになることを希望したが、周囲の説得で高校・大学に進学した。
総合格闘技と美術に傾倒
青山学院大学ではレスリング部主将を務め、並行して総合格闘技団体・和術慧舟會RJWで練習していた。
絵画が好きな中邑は美術部にも所属していた。
■新日本プロレス入団後は特別扱いで総合格闘技路線
2002年、新日本プロレスからプロレスデビューした。
当時の新日本は格闘技路線であり、総合格闘技の経験がある中邑は、他の選手とは違い特別扱いであった。
新日本の巡業には同行せずLA道場で練習した。
2004年5月までに間に、総合格闘技に5試合出場し、ダニエルグレーシー、ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキア、アレクセイ・イグナショフ、シェーン・アイトナーと対戦した。
史上最年少でIWGPヘビー級戴冠
2003年12月、史上最年少でIWGPヘビー級王座を獲得する。
2009年までの間に3回戴冠している。
蝶野正洋と組みヒールに転向・体重を増やしパワーアップ→短期間で元に戻る
2006年10月、蝶野正洋と組みヒールに転向し、体重を増やしてパワーファイターに路線変更する。
しかし、短期間で元に戻る。
CHAOS結成・・「悪いほう」のイメージとはならず
2009年4月、矢野通とCHAOSを結成する。当初は乱入や反則を行いヒール軍団のイメージだった。
しかし、「矢野通劇場」がファンに指示されたことと、オカダカズチカやYOSHI-HASHIのような超ベビーフェイスが加わっていることにより、「悪いほう」のイメージはつかなかった。
「インターコンチネンタル王座=中邑真輔」のイメージを構築
2012年7月、インターコンチネンタル王座を獲得し、2015年までの間に5回戴冠する。
ニュージャパンカップで優勝し選手権への挑戦権が与えられた時は、IWGPヘビーではなくインターコンチネンタル王座の挑戦権を選択し、「インターコンチネンタル王座といえば中邑真輔」というイメージを構築した。
東日本大震災を機にクネクネになる
中邑真輔は、2011年3月11日の東日本大震災で被害に直面したことにより意識が変化する。
ファイトスタイルが変化し自由自在にクネクネするようになる。
このころCMLLに遠征したことがあったが、「違うやつが来た」と言われるほど変化した。
インタビューによる発言などから見ると「一度限りの人生、いつ何が起こるかわからない。自分はプロレスの世界でやりたいように好きなようにやってみよう」という意識だと思われる。
■プロレスと格闘技を極めた中邑真輔が一貫して言い続けたこと「一番スゲエのはプロレスなんだよ」
2004年頃、中邑真輔は、「K-1とかPRIDEとかよく分かんねえけど…一番スゲエのはプロレスなんだよ」とマイクアピールしている。
この時期は、プロレスデビューしてから総合格闘技戦に出場していた中邑が、プロレスに専念しはじめた頃となる。
2011年8月のG1クライマックスで優勝した際には
「ここにいるやつらは、みんな知っている。一番スゲェーのは、一番スゲェーのは、プロレスなんだよ!」と主張した。
様々な経験をしながら、自分のスタイルを進化させてきた中邑真輔が一貫して言っているのが以下の言葉である。
「一番すげーのはプロレスなんだよ」
■人物プロフィール
- ナカムラシンスケ[中邑真輔](WWE)・・■中邑真輔‥ ◆京都府出身 ◆1980年2月24日 ◆188cm105kg ◆青山学院大学→新日本→WWE
■プロレスの名言「プロレス論」
- 長州力「俺からタックルとったら一本で良いよ」
- 沖識名「俺が命を賭け、身体を張ってきたプロレスを八百長呼ばわりするとは許せない」
- 北斗晶「私は最強ではない。でもあの柔道かぶれにだけは絶対に負けない」
- 力道山「ルール内でできる限りの荒わざを取りかわすことが本当の真剣勝負だ」
- 三沢光晴「人間を表現できるレスラーは本物」
- ブルーザー・ブロディ「プロレスはチェスのようなもの」
- アニマル浜口「プロレスは"眼"なんです」