ページリロード

2018.02.19・・2月19日の出来事・・日本のプロレスのはじまり・・日本初の本格的なプロレス興行スタート

1954年2月19日、当時はプロレスのようなものはあったが継続的ではなかった。力道山がこの日から始めたプロレス興行が実質的に「日本のプロレスのはじまり」であり、力道山が「日本のプロレスの父」といえる。


▲スポンサーリンク

2月19日の出来事・・日本のプロレスのはじまり・・日本初の本格的なプロレス興行スタート

力道山が大相撲からプロレスに転身

力道山は、1940年から大相撲で活躍し関脇まで昇進した力士であったが、1950年9月、相撲界の差別やトラブルなどから、突然髷を切り廃業する。

プロレスとの出会い

1950年頃、日本にはプロレスといえるものはなかった。柔道家がプロとなり興行を行ったり、女子プロレスのようなもの(今でいうキャッとファイトのようなもの)はあったが、継続的なものではなかった。少なくともプロレスは世間で認知されていなかった。

力道山は、大相撲廃業後は建設会社で仕事をしていたが、ふとしたことから、日本に遠征していたアメリカのプロレス団体の日系人プロレスラーであるハロルド坂田と知り合う。この出会いが、力道山にプロレスの存在を知らしめることになる。

力道山は、ハロルド坂田の勧めで、プロレスラーになることを決意し、アメリカ人プロレスラーから指導を受けるようになる。

日本でプロレスをはじめる。プロレス団体設立、プロレス興行実施

1952年2月、アメリカに渡り、日系人レスラー沖識名からプロレスの指導を受ける。

1953年、大相撲時代からの後援者などから協力を得て、日本プロレス協会を設立する。

1954年2月、カナダ出身でアメリカで活動していたプロレスラー"シャープ兄弟"を日本に招き、プロレス興行14連戦を敢行した。

1954.2.19-日本のプロレスの夜明け・・力道山・木村政彦 vs シャープ兄弟が大ヒット

プロレス興行14連戦は、日本中で大ヒットとなった。試合会場が連日満員となり、このころ始まったテレビでプロレスの試合が放映され、街頭テレビに大勢の人が集まった。

最高の黄金カードは「力道山・木村政彦vsシャープ兄弟」であった。あっというまにプロレスは日本中で大ブームとなった。これが日本のプロレスの夜明けといってよい。


▲街頭テレビの前に集まる大群衆


▲スポンサーリンク

力道山が「日本のプロレスの父」となった理由

 日本のプロレスそのものを創った。アメリカのプロレス興行を参考に準備を周到に行った。

1954年までの日本には、プロレスらしきものは多少あったものの、柔道家がプロとなり試合を観客に見せる興行を行なったり、女子プロレスがキャットファイトのようなものをやっているものであり、継続的なプロレス興行ではなく、世間からは認知されていなかった。継続的に行われるプロレス興行を確立したのは力道山が初めてであった。

力道山は、アメリカ修行をするのと並行して、アメリカで行われているプロレス興行の知識を吸収し、人脈を築き、アメリカのプロレスラーを日本に招き、「力道山・木村政彦 vs シャープ兄弟」という黄金カードを実現させ、大ヒットさせた。

テレビの力を理解し、効果的に利用した。テレビの発展とともにプロレスも発展した。

力道山は、アメリカでプロレスが放映され民衆に根付いていることをすでにわかっていた。日本では、テレビ放送が始まったばかりであり、民衆にはまだまだ広まっていなかった。力道山はテレビ局にプロレス放映をするべきだと主張し、プロレス中継を実現させた。力道山が空手チョップで白人を倒す姿が街頭テレビに映し出されると、あっというまに人だかりができた。

力道山は自伝の中で、「プロレスが大衆に広まったのはテレビのおかげだが、プロレスのおかげでテレビが広まった面もあるという自負もある」(主意)と述べている。

プロレスの定番を創った。民衆をヒートアップさせる手段を知っていた。

プロレス草創期の日本では、民衆は敗戦のショックから必死に立ち上がろうとしていた。そこに、プロレスという、アメリカに負けたショックを癒す最高の娯楽が現れた。力道山が白人を空手チョップでなぎ倒す姿は痛快であり、日本人に自信を与えた。

これから日本では「日本人 vs 外国人」という図式が定番であった。プロレスで日本人が外国人に立ち向かう姿を見ることが最高の娯楽であった。日本人が外国人に負けると悔しさでヒートアップし、「次こそは・・」と次の会場にも足を運んだ。日本人が勝つと喜びを爆発させ、「次も勝つぞ・・」と会場に足を運んだ。会場に行けない人は、街頭テレビでヒートアップした。

ジャイアント馬場とアントニオ猪木を育成した。

力道山は、プロ野球選手からプロレス転向を希望したジャイアント馬場と、ブラジルでスカウトしたアントニオ猪木を入門させ、厳しき指導し育成した。もしも力道山がいなかったら日本にプロレスが存在しなかったし、馬場と猪木がいなかったら、今日のプロレスもなかった。

力道山亡き後、アントニオ猪木が新日本プロレスを創設し、ジャイアント馬場は全日本プロレスを創設した。その後、多数のプロレス団体ができ活動しているが、新日本・全日本の両団体は今なお継続して活動している。

 
 


▲スポンサーリンク


▲スポンサーリンク


▲スポンサーリンク

タイトルとURLをコピーしました