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1945.08.06・・アメリカが広島と長崎に世界初の原爆投下・トルーマン大統領が原爆投下を正当化「原爆により命が救われた」




トルーマン大統領が創造した物語「原爆により命が救われた」

 

1945年8月6日、広島に世界初の原子爆弾投下

1945年8月6日、広島に世界初の原子爆弾が投下された。

アメリカ軍の最高責任者であるハリー・トルーマン大統領は、原爆投下を決断した理由について、ラジオでアメリカ国民に向けて、以下のように述べた。

「戦争を早く終わらせ、多くの米兵の命を救うため、原爆投下を決断した。皆さんも同意してくれると思う。」(趣意)


▲トルーマン大統領

原爆投下は、戦争終結を早めることにより、アメリカ兵の死者が増えることを防ぐためであったということを強調し、原爆投下の正当性を主張した。

これは、日本に原爆を投下した大義とされており、アメリカ国民には、このような認識を持っている人が多いという。

 

トルーマン大統領は後悔していた。市民を犠牲にするつもりはなかった。

原爆投下直後、トルーマン大統領が原爆投下を後悔していたことが、知人への手紙によって明らかになった。その手紙には、以下のような記述があった。

「人々を皆殺しにしてしまったことを後悔している。日本の女性や子供たちへの慈悲の思いは私にもある。」(抜粋、主意)

 

トルーマンは原爆の標的を軍事施設に限定していた

また、トルーマンは日記の記述から、以下のように考えていたことが判明している。

「原爆を落とす場所は、あくまでも軍事施設に限る」

 

なぜ広島と長崎に原爆が投下されたのか

後年、原爆計画責任者であったレスリー・グローブス氏は、以下のように語っていた。

「トルーマン大統領は、市民の上に原爆を落とすという軍の作戦を止めることができなかった。いったん始めた計画を止められるはずがない。」(抜粋、主意)

「原爆は、原爆の威力が隅々にまで行き渡る都市に落としたい。」(抜粋、主意)

なぜ大勢の市民がいる広島市の市街地に原爆が投下されたのか。

大統領の思惑と違う結果になってしまったのはなぜか。

どのような経緯で原爆投下に至ったのかを整理する。

 

1942年9月・マンハッタン計画スタート

1942年9月、当時のルーズベルト大統領は、原子爆弾を開発する「マンハッタン計画」を立ち上げた。

22億ドルの国家予算がつぎ込まれ、世界初の原子爆弾開発を目指した。

責任者には、レスリー・グローブス氏が抜擢された。


▲レスリー・グローブス

 

1945年4月・ハリートルーマンが大統領となる。

1945年4月、ルーズベルト大統領が急死したことにより、副大統領であったハリー・トルーマンが大統領となった。

トルーマンは、特に引き継ぎもないまま、突然、巨大国家プロジェクトの最高責任者となったことになる。

 

1945年4月25日-グローブスがトルーマン大統領に原爆計画を報告

1945年4月25日、グローブスが原爆計画の内容・効果・予算などをまとめた報告書を持参し、トルーマンに原爆計画の報告をした。

トルーマンは、報告書を読むのは嫌いだと言い、特に質問や指摘をせず、詳細を把握しようとはしなかった。

グローブスは、原爆計画を引き続き進行させることは了承されていると解釈した。

 

1945年4月27日-原爆投下の目標検討委員会が開かれた。

1945年4月25日、原爆投下の目標検討委員会が開かれた。

メンバーは科学者と軍人であり、トルーマンと側近は含まれていなかった。

 

原爆投下の時期は8月に決定

気象の専門家が言った。

「日本の6月は梅雨にあたり最悪だ。7月はまだましだが8月になってよくなる。9月になるとまた悪くなる。」

投下の時期は8月に決まった。

 

最大の破壊効果を目指し原爆の標的を検討「人口集中・直径5キロ以上・まだ破壊されていない所」

物理学者が言った。

「人口が集中する地域で、直径が5キロ以上の広さがある都市にすべきだ。それも8月まで空襲を受けず破壊されていない都市が良い」

ねらいは最大の破壊効果を得ることだった。

目標の候補地として、東京湾から佐世保までの17か所がピックアップされていた。

その中で、有力候補は京都と広島だった。

 

当初は京都が候補地だったが却下、軍事的意義が薄いと判断

軍は、原爆を投下する場所は、「原爆の威力が行き渡るような場所」が適していると考えており、当初は京都市が候補地となっていた。

京都を標的にする案は却下
しかし、グローブスが大統領の側近・ヘンリー・スティムソン陸軍長官に、京都への原爆投下を提案したところ却下された。
グローブスは諦められず、京都に軍事施設があることなどを説明し、何度か彼を訪ね説得したが却下された。
トルーマン大統領も、京都への原爆投下は反対であった。

市民の犠牲によるアメリカのイメージ低下を危惧
スティムソンは京都を訪れたことがあり、京都に原爆投下をすれば大勢の市民が犠牲になることを知っていた。
大勢の一般市民の犠牲者を出せば、アメリカがドイツのヒトラーと同様に世界中から非難を受けイメージが悪くなることを危惧していた。
また、戦後の和解の芽を摘み、日本が反米国家になってしまうという可能性もあった。トルーマン大統領も同様の見解であった。

この時点で決行することの正当性に懸念
現状で何度も実施している日本本土への空襲が、すでにアメリカのイメージを悪くしているという心配もあった。
すでに日本は戦闘能力を失っており、降伏は時間の問題であると思われていた。
ましてや、大勢の市民の犠牲が出る京都に原爆投下を行うことは承服できないことであった。

 

1945年7月16日-ニューメキシコ州で核実験が成功し、終戦前に原爆を使用する必要に迫られた。

1945年7月16日、ニューメキシコ州で核実験が成功したことにより、莫大な資金が使われている原爆を実際に使用する必要が出てきた。

グローブスは、莫大な資金の投入によりようやく原爆が完成したのに、使用しなければあとで議会で追及されると考えていた。

 

標的場所が見直され、1発目は広島に決定した。

軍は、京都への原爆投下をあきらめ、広島市を候補地とし、スティムソンとトルーマン大統領を説得した。

広島市は軍事都市だということを強調し、説得を行い、最終的には1発目は広島市に決定した。

 

広島が「軍事都市」と強調

広島は日本軍の司令部があったものの、34万人の市民が暮らし、いち早く西洋文化を取り入れた一般市民の文化を構築していた都市であった。

しかし、グローブスは、広島は日本有数の港と軍の大規模施設が集まった「軍事都市」であることを強調していた。

 

トルーマンは「広島=軍事都市」という説明を信じ込んだ。

トルーマンは、グローブスらの「広島=軍事都市」という説明を信じてしまい、広島に原爆を投下しても一般市民への犠牲が出ないと思い込んでしまった。

 

1945年7月25日-「軍事指令書」が発令された。「広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに原爆を投下せよ」等

1945年7月25日、「軍事指令書」が発令された。

「広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに原爆を投下せよ。2発目以降は準備ができ次第、投下せよ」(抜粋・主意)

トルーマンがこの指令書にサインをしたという記録は残っていない。

大統領の明確な決断がないまま、軍の以降の通りに原爆投下まで進んだという可能性が高い。

 

1945年8月6日-広島に1発目の原爆が投下された。

1945年8月6日、広島に世界初の原子爆弾が投下された。

平野に均等に破壊が及ぶように町の中心部にあたる相生橋が標的とされた。

 

トルーマンはメッセージを発表

このときトルーマンは、ポツダム会談の帰り道であり船の中であり、まだトルーマンはあくまでも軍事施設を破壊したのだと思い込んでいた。

トルーマンは、船の中からアメリカ国民に向けて、ラジオでメッセージを発信した。

「先ほどアメリカ軍は日本の軍事拠点である広島に1発の爆弾を落とした。原子爆弾が、この戦争を引き起こした敵の上に解き放たれたのだ」

 

1945年8月8日・トルーマンは広島が破壊された写真を見て責任を感じた

1945年8月8日、トルーマンは、スティムソンから広島が原子爆弾によって破壊された写真を見せられた。

トルーマンは「こんな破壊行為をした責任は大統領の私にある」と語った。

トルーマンは、アメリカ軍の本当の意図を見抜けなかったことにより、大量破壊をしてしまった責任の重さを初めて強く感じた。

 

そのころすでに2発目の準備が進んでいた

そのころ、2発目の原爆の準備が整い、原爆投下に向けた動きが進行していた。

2発目の投下をストップできるのは、最高責任者のトルーマンだけだったが、トルーマンは細かい動きを把握していないので、ストップの命令をすることはなかった。

 

1945年8月9日-2発目の原爆が長崎に投下された。

1945年8月9日、2発目の原子爆弾が長崎に投下された。

トルーマンは後悔した。

「日本の女性や子どもたちへの慈悲の思いは私にもある。人々を皆殺しにしてしまったことを後悔している」
(知人への手紙)

 

1945年8月10日・原爆投下の中止を決定

1945年8月10日、トルーマンは全閣僚を集め、原爆投下を中止することを全閣僚に伝えた。

「新たに10万人、特に子どもたちを殺すのは、考えただけでも恐ろしい」と述べている。

 

ようやく日本への原爆投下が止まった。すでに21万人の命が奪われていた。

グローブスは3発目の準備を進めていたが、大統領の命令であれば原爆投下の中止をするしかなかった。

これで、大統領の新たな命令がない限り、原爆投下はできなくなった。

日本への原爆投下がようやく止まった。

すでに21万人の命が奪われていた。

 

トルーマンの声明「命を救うために原爆を使用した」(趣意)

トルーマンは、アメリカ国民に向けたラジオ演説で、このように述べた。

「戦争を早く終わらせ、多くの米兵の命を救うため、原爆投下を決断した」

この文言は、原稿には無く、あとで付け足されたものであった。

 

トルーマンは自分の行為を正当化

「多くの米兵を救うため」という言葉は、トルーマンが大勢の市民に原爆を投下したことの正当性を主張するための言葉であった。

この言葉により「命を救うために原爆を使用した」という物語のようなものがアメリカ国民の共通認識となった。

トルーマンは世論を操作し、市民を犠牲にしたという批判を避けようとした。

 

1945年8月15日・日本は降伏した。世論調査で8割のアメリカ国民が原爆投下を支持していた。

1945年8月15日、日本は降伏した。

世論調査で8割のアメリカ国民が原爆投下を支持していた。

 

トルーマンの世論操作により原子爆弾の恐ろしさが世界に広まらなかった。

トルーマンの世論操作により原爆投下が正当化され、「原爆投下は正しい行為だった」という認識が広まった。

原子爆弾がいかに恐ろしいかが広まらないまま、世界各国で競うように核実験が行われる状況となった。

 

1963年トルーマンは被爆者と面会した。「原爆投下は日本人のためでもあった」と述べた。

1963年、トルーマンは日本の被爆者と面会し、以下のように述べた。

「原爆投下の目的は、アメリカ人と日本人、それぞれ50万人の犠牲者を出さずに戦争を終わらせることだった。」
「原爆投下は日本人のためでもあった」

トルーマンは最後まで被爆者と目を合わせることはなく、面会は3分ほどで終わった。

 

1953年、トルーマンは真実を語らず88歳で生涯を閉じた。

1953年、トルーマンは88歳で生涯を閉じた。

大統領の決断が不明確なままで2発の原爆投下がされたこと、原爆投下で21万人の市民の命を奪ったことを正当化したことを明かすことはなく、生涯を閉じた。

コメント

  1. синевир より:

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