壬申の乱
天智天皇が絶大な権力を握り政治改革を断行
天智天皇は、645年の大化の改新の後、中大兄皇子(皇太子)時代に絶大な権力を握り政治改革を推し進め、天智天皇として即位した後も改革を断行した。
天智天皇の急速で斬新な改革に不満を持つ者は多かったが、天智天皇が絶大な権力があったため表面化しなかった。
天智天皇が長男を後継者に指名するが周囲は疑問
671年、天智天皇は、長男の大友皇子を太政大臣とした。
当時は、太政大臣になるということは、次の天皇に指名されたことと同様の意味を持っていた。
当時の慣習では、天皇は同母の兄弟が継ぐのが当然とされており、長男が父の皇位を継ぐというのは異例であった。
また、大友皇子の母は地方出身の豪族であり身分が低かった。
大海人皇子は朝廷を離れ吉野に移る
上記のような理由から、周囲の人達は、天智天皇の弟である大海人皇子が皇位を継ぐのが当然だと思っていた。
しかし、大海人皇子は、天智天皇に天皇になる意思は無いことを伝え、出家し吉野に移っていた。
天智天皇が崩御し大友皇子が弘文天皇となる
672年1月7日、天智天皇が病気で崩御し、大友皇子が跡を継ぎ弘文天皇となった。
絶大な権力者である天智天皇が崩御し、後継の大友皇子(弘文天皇)が24歳と若かったことから、ここがクーデターの機会と考えた人たちもいたであろう。
大海人皇子が決起
672年5月、朝廷が武装し、吉野にいる大海人皇子を討つ動きがあることが、大海人皇子に伝えられた。
672年7月24日、大海人皇子は自分の身の危険を知り、吉野からでて戦う決意を固め、挙兵した。
▲壬申の乱の動き
【出典】https://www.asuka-tobira.com/jinshin/kantan.htm
大海人皇子軍が勝利・大友皇子が自決
大海人皇子の軍勢は、朝廷に不満を持つ豪族が次々と味方になり、伊勢、尾張、美濃方面に兵を進めるにつれ、兵力が増強されていった。
大海人皇子軍と大友皇子軍は、琵琶湖周辺で数度にわたり激突し、大海人皇子が連戦連勝で進撃を続け、都・大津の目前である瀬田橋まで迫った。
8月20日、瀬田橋の戦いで大海人皇子軍が勝利すると、翌日、大友皇子が自決した。
大海人皇子が天武天皇として即位
673年2月、大海人皇子は天武天皇として即位した。
都は飛鳥(奈良県明日香村)に遷都された。