藤原道長が左大臣に昇進し実権を掌握
父・藤原兼家から兄・藤原道隆に地位が継承される
藤原道長の父である藤原兼家は、986年に摂政となり、989年に太政大臣、その後、関白となる。
990年7月、藤原兼家が亡くなり、長男の藤原道隆が引き継ぎ、関白、摂政となる。
藤原道長の評判が上がる
990年10月、藤原兼家の喪中に兄・藤原道隆が娘・定子を皇后にし、前代未聞の皇后4人体制となったため、世間からの評判が下がる。
藤原道長は、道隆の強引なやり方に不満を持ち、定子のもとに参らなかったため、世間の評判が高くなる。
道長は、991年に権大納言、992年に従二位となる。
藤原道長が藤原伊周との出世争いに勝つ
藤原道隆の嫡男・藤原伊周は、994年に内大臣となり、道隆の後継者とされていた。
995年、関白・藤原道隆が病となり、伊周を後継者とすることを天皇に申し出るが許されなかった。
藤原道隆は病死し、道隆の弟・道兼が関白となるが、わずか7日で病死した。
996年1月、藤原伊周は、女性関係が原因で花山法皇とトラブルになり乱闘騒ぎ事件を起こしたため、左遷されて失脚した。
996年7月、藤原道長は左大臣に昇進した。
藤原道長が権力を掌握
藤原道長は、太政官の事実上の首席である左大臣となり、公事の執行の最高責任者となった。
また、関白に近い権限を持つ内覧を兼任し、権限を強固なものにした。
998年、道長は病気を患い、天皇に出家を申し出たが、天皇に慰留され、その後、公務に復帰している。
1000年2月、道長は娘の彰子を皇后とした。
1008年9月、皇后・彰子は、皇子・敦成親王を産み、翌年、敦良親王も生まれた。
1011年6月、一条天皇から東宮・居貞親王に譲位され、三条天皇が即位した。