■三沢光晴‥
◆埼玉県出身
◆1962年6月18日生
◆185cm110kg
◆全日本→NOAH
略歴
1981年8月、全日本プロレスからプロレスデビューする。
1984年、越中詩郎とともにメキシコ遠征に出る。そのご、数か月で帰国の指示を受ける。
2代目タイガーマスクとなる
1984年8月26日、2代目タイガーマスクとなる。
1985年8月31日、「虎ハンター」小林邦昭に勝利し、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得する。
1985年10月、ヘビー級に転向する。
1986年、アメリカ遠征に出る。
1988年5月、結婚記者会見で正体を明かすが、タイガーマスクは続行した。
1990年、新日本プロレス・東京ドーム大会に出場し、ブレッドハートとシングルマッチで対戦する。
素顔に戻り全日本プロレスのエースとなる。ジャイアント馬場から勝利
1990年、天龍源一郎が数名のレスラーとともにSWSに移籍した、その後、三沢はマスクを脱ぎ、川田利明、小橋建太とともに「超世代軍」を結成した。
1990年6月8日、ジャンボ鶴田にシングルマッチで勝利する。
1992年8月、スタンハンセンに勝利し、三冠ヘビー級王座を獲得する。
1994年3月5日、タッグマッチでジャイアント馬場からピンフォールで勝つ。
全日本プロレスの社長に就任
1999年、ジャイアント馬場が死去し、馬場の存命中からマッチメイクなどの権限は譲り受けていた三沢が社長に就任する。その後、全日本プロレスの株式を保有する馬場元子(ジャイアント馬場夫人)と対立する。
2000年5月、社長を解任される。
2000年6月、全日本プロレスを離脱する。26名の選手や練習生が三沢と行動を共にした。残ったのは、川田利明、渕正信、太陽ケア、馳浩だけであった。
プロレスリングNOAHを創立
2000年6月、新団体設立を発表する。
2000年7月、興行主への配慮から、全日本プロレスの試合に4試合出場する。
2000年8月5日、三沢光晴が創立したプロレスリングNOAHの旗揚げ戦を行う。
闘魂三銃士の3人とも対戦実現
2001年1月、タッグマッチで橋本真也と対戦する。
2001年4月、創設したGHCヘビー級初代チャンピオンとなる。
2001年11月、小川良成と組み、GHCタッグ王座を獲得する。
2002年5月2日、新日本プロレス東京ドーム大会で蝶野正洋とシングルマッチで対戦し30分時間切れ引き分けとなる。
2004年7月、タッグマッチで武藤敬司と対戦する。
2007年、プロレス大賞MVPを獲得する。
2009年、潮崎豪と組み、グローバル・タッグ・リーグ戦で優勝する。
試合中の事故で死去
2009年6月13日、タッグマッチの試合に出場し、バックドロップを受けた後、心肺停止状態となり、病院で死亡が確認された。46歳であった。当初は受け身を取り損ねた事故のように報道されたが、受け身は取れていたという証言もあり、様々な憶測がされた。いずれにしても、長年激しい試合をしたダメージの蓄積によるものであることは否定できない。
2009年7月、「三沢光晴お別れ会」が行われ、約26,000人が参列した。
三沢光晴のすごいところ=「三沢光晴 vs 川田利明」でジャイアント馬場が感動して涙した
1990年代、全日本プロレス社長のジャイアント馬場は、従来のように反則やリングアウトで決着させるのを極力やめさせ、完全決着させるという理想を掲げた。三沢は、この馬場の理想を実行するため、完全決着させるために大技を連発する試合を行った。
1997年6月6日、三冠ヘビー級選手権「三沢光晴 vs 川田利明」では、解説者の馬場が自分の予想を超えた激しい試合に感動し涙した。
「三沢光晴 vs 小橋建太」で極限の試合をした。実況アナウンサー絶叫「死んでしまうー」
2003年3月1日、GHCヘビー級選手権で、花道の上から小橋建太をリング下に投げっぱなしタイガードライバーでぶん投げた。実況アナウンサーは「死んでしまう-」と叫んだ。
「三沢 vs 小橋」は、1997年、1998年、2003年の3度も年間最高試合賞を獲得した。
獲得したタイトル
三冠ヘビー級王座
世界タッグ王座
アジアタッグ王座
PWF世界タッグ王座
NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座
チャンピオン・カーニバル優勝(1995年・1998年)
世界最強タッグ決定リーグ戦優勝(1992年・1993年・1994年・1995年)
GHCヘビー級王座
GHCタッグ王座
グローバル・タッグ・リーグ戦優勝(2009年)
プロレス大賞MVP(2007年)