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ジャンボ鶴田・・「世界を獲ったバックドロップ」「最強」「怪物」

▼山梨県出身
▼1951年3月25日生
▼196cm127kg
▼全日本プロレス

ジャンボ鶴田の略歴

中央大学在学中にバスケットボールをやめアマチュアレスリングを始めようとするが入部を断られたため、自衛隊の道場で練習し全日本選手権で2種目制覇する。

1972年、ミュンヘンオリンピック・グレコローマンスタイル100kg以上級に出場する。

1972年10月31日、ジャイアント馬場のスカウトにより大学在学中に全日本プロレスに入団表明する。「全日本プロレスに就職します」と報道される。その後、アメリカ・テキサス州アマリロのザ・ファンクスのもとでトレーニングする。

1973年3月24日、テキサス州アマリロでプロレスデビューする。

1973年10月9日、帰国し、ジャイアント馬場と組みインタータッグチャンピオンであったザ・ファンクスに挑戦する。1本目でテリーファンクからピンフォールを奪う。

1974年3月、再度アメリカに遠征する。

全日本プロレスのエースとなる

1976年8月、UNヘビー級王座を獲得する。

1980年、チャンピオンカーニバルで優勝する。

1982年、「鉄人」ルー・テーズからバックドロップとフライング・ボディシザース・ドロップの指導を受ける。

1983年、インターナショナルヘビー級王座を獲得する。ジャイアント馬場が鶴田をエースとして認める。

1983年、プロレス大賞MVPを受賞する。

「世界を獲ったバックドロップ」AWA戴冠・日米で16回防衛

1984年、ニック・ボックウィンクルをバックドロップホールドで撃破し、AWA世界ヘビー級王座を獲得する。最後の決め技は「世界を獲ったバックドロップ」と言われた。この後、日米を往復しながら16回の防衛をする。

1984年、プロレス大賞MVPを2年連続で受賞する。

1985年11月4日、長州力とシングルマッチで対戦し、60分時間切れ引き分けとなった。試合結果は引き分けだったものの、長州力は試合後スタミナが切れ動けなかったが、鶴田はさっさとシャワーを浴びて数人で飲みに出かけたことから、鶴田の強さが伝説となった。長州は後に自分のほうがバテていたことを認めている。

天龍同盟との闘い

1987年、天龍源一郎が激しい試合で革命を目指した「天龍同盟」を結成した。鶴田は天龍同盟の激しい攻撃に対して受けて立ち、いつもより厳しい技で応戦し、時々失神者や怪我人が出た。

1988年6月、谷津嘉章と組み、インターナショナル・タッグ王座とPWF世界タッグ王座を統一し世界タッグ王者となる。

初代三冠王者となる

1989年4月、インターナショナル・PWF・UNを統一し、初代三冠王者となる。

1990年2月、新日本プロレス・東京ドーム大会に出場する。

超世代軍との闘い

天龍が全日本プロレスを離脱し、天龍に代わって鶴田のライバルに名乗りを上げたのは三沢光晴と超世代軍であった。1990年6月、三沢は鶴田から丸め込みでピンフォールを奪ったが、3か月後の三冠ヘビー級選手権では、バックドロップ連発で三沢を痛めつけて勝っている。

1991年、3度目のプロレス大賞MVPを獲得する。

B型肝炎で第一線から引く

1992年11月、B型肝炎を発症し、長期欠場となり、第一線から退いた。

1994年10月、筑波大学大学院体育研究科コーチ学専攻に合格、非常勤の大学教員となる。同時並行でプロレスの試合にも時々出場した。

引退表明

1999年、ジャイアント馬場が死去した後、引退を表明する。その際に「負けてもいいから前田日明と戦ってみたかった」と発言した。前田日明はそれを聞き、光栄に思っているという趣旨の発言をしていた。

1999年3月6日、日本武道館で引退セレモニーが行われた。

49歳で死去

このころの鶴田は肝臓がんで深刻な病状となっており、日本の法制では肝臓移植が困難であったため、海外での手術に望みをかけた。

2000年5月13日、フィリピン・マニラで手術を受けた際に大量出血により死亡した。49歳であった。

2014年11月、米国プロレス殿堂入りした。


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ジャンボ鶴田の人物像

「最強」「怪物」「無尽蔵なスタミナ」

ジャンボ鶴田を日本人最強と考えている人は多い。鶴田の強さは「最強」「怪物」「無尽蔵なスタミナ」「ナチュラルな強さ」など数多くの表現がされた。

三沢光晴は「鶴田さんが筋力トレーニングをしているところを見たことがない。おそらく自分の好きなテニスやバスケットボールを楽しみながら必要な筋肉を付けていたのだと思う」「鶴田さんは持って生まれたものが凄すぎた。レスラーに必要な能力を全て備えていた」と述べている。

生まれ持った運動基礎能力が、他人よりも格段に優れていた。「若い頃に、ただ山道を自転車で走り回っていただけで、超人的な体力がつき、ロクに練習しないままに、オリンピックに出た人」と吉田豪は述べた。

中央大学にバスケットボールの特待生で入学したのにもかかわらず、「なんでもいいからオリンピックに出たい」と思い、「レスリングならなんとかなりそうだ」という理由でレスリング部に移ろうとするが断られ、自衛隊で練習し、全日本選手権で優勝しミュンヘンオリンピックに出場した。

ブルーザーブロディはプライドが異様に高く、他のレスラーを認めることはめったになかったが、ジャンボ鶴田のことは認めていた。ジャンボ鶴田との選手権が決まると、スタミナで負けないように体重を落として臨んだ。

前述の長州力との60分引き分け試合では、「鶴田は試合後にさっさとシャワーを浴びいつものように飲みに行った」という振る舞いから「無尽蔵のスタミナ」が注目された。

クールなイメージがつきまとった

ジャンボ鶴田は、「プロレスラーは怖いオジサン達の集まり」というイメージを変えていきたいと思っていた。そのことから、クールな発言が多く、熱狂的な人気は得られなかった。プロレス大賞MVPを3度獲得しているが、純粋に選手権の実績が評価されたものであった。

全日本プロレスへの入団会見では、「僕のようなでっかい体の人間が就職するのには、全日本プロレスが一番適した会社かなぁと思って、尊敬する馬場さんの会社を選びました」と発言した。これがクールなイメージにとられ「全日本プロレスに就職します」と報道された。

「バックドロップをするときは相手の力量によって角度を変える」という発言がファンに不評だった。プロレスラーは会社の商品であり、けがをさせることはマイナスであるため、力量が低いレスラーが相手の場合はダメージを調節することは当たり前のことである。しかし、熱狂的なプロレスファンは「あいつをぶっ殺す」という趣旨のコメントを期待するため、鶴田のクールな発言は不評だった。

後輩にたいして威張ることは全くなく、リングを降りると私生活は別だという意識があり、寝食を共にしチームを引っ張るというようなことは無かった。長州力や天龍源一郎のように軍団を結成しムーブメントを起こすようなことは無かった。

試合では、相手にダメージを与えて相手が苦しんでいる間に余裕を見せていることが多く、多くのファンには不評だった。次の攻撃に行く前に「オー」と言って右腕を突き上げることが多かったが、「オーはいらないよ~」と言うファンもいた。

1991年1月、川田から顔面へのステップキックを執拗に繰り出された後、鶴田はキレてしまい、エルボー、キック、場外ボディスラム、椅子の硬いところで殴る攻撃などを連発し、川田を戦意喪失状態にし、会場を凍り付かせた。その後、控室では「何でボク、あんなにキレちゃったんだろう」と元に戻っていた。


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ジャンボ鶴田が獲得したタイトル

三冠ヘビー級王座
AWA世界ヘビー級王座
インターナショナル・ヘビー級王座
UNヘビー級王座
インターナショナル・タッグ王座
PWF世界タッグ王座
世界タッグ王座
NWA認定デトロイトタッグ王座
チャンピオン・カーニバル優勝(1980年、1991年)


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