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サヤマサトル・・佐山聡(初代タイガーマスク)

▼山口県下関市出身
▼1957年11月27日
▼173cm90kg
▼新日本→UWF→シューティング→UFO

佐山聡の略歴

新日本プロレスからプロレスデビュ-

1976年5月、新日本プロレスからプロレスデビューする。

1977年11月、マーク・コステロと両者ボクシンググローブ着用で対戦し、判定負けを喫する。

1978年、メキシコに遠征し、NWA世界ミドル級王座を獲得する。

1980年、イギリスに遠征しブルース・リーの従弟「サミー・リー」として活動し、大変な人気であった。

タイガーマスクが大ヒット

1981年、新日本プロレスからの帰国命令を受け、タイトルマッチの予定があり当初は断ったが、説得され帰国する。

1981年4月23日、タイガーマスクとなり、ダイナマイト・キッドとシングルマッチで対戦し、ジャーマンスープレックスで勝利する。タイガーマスクは、スピード、蹴発力、空中殺法、トリッキーな動きなどでファンを驚かせた。

初期のマスクは急造品で完成度が低かったが、それを忘れさせるような高度な試合内容であった。


▲初期と後期のマスク

金八先生・太陽にほえろと視聴率を争う・猪木を超える人気

タイガーマスクのプロレスを古舘伊知郎アナウンサーは「四次元殺法」と形容し大ヒットとなった。毎週金曜八時(東京圏)の新日本プロレス中継「ワールドプロレスリング」は、「金八先生」「太陽にほえろ」と視聴率を争った。(巨人戦中継も高視聴率であったが、放送局は一定でないため別格とみなしている)

「タイガーマスクを観てから(その後の猪木を診ないで)金八先生にチャンネルを変える」という人がいたほどである。タイガーマスクの人気は、アントニオ猪木を超えていたといえる。

プロレス大賞MVP受賞・チャンピオンとして君臨

1982年、プロレス大賞MVPを受賞する。

1982年1月、ダイナマイト・キッドに勝利し、WWFジュニアヘビー級王座を獲得する。

1982年5月、レス・ソントンに勝利し、NWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得し、二冠王となる。

突然引退、まさかの「金どこ」で素顔公開、欽ちゃんと真屋順子の反応は微妙

1983年8月、新日本プロレスに対して契約解除を告げ、引退してしまう。テレビ朝日の「欽ちゃんのどこまでやるの!?」にゲスト出演し、あっさりとマスクを脱ぎ、素顔を公開してしまった。欽ちゃんと真屋順子の反応が全く前のめりになっておらず、淡々とした受け答えで微妙な反応だった。

驚異の155勝1敗9分(1敗はしょーもないルールの一敗なので実質的に無敗)

タイガーマスクとして戦っていた2年4ヶ月間のシングルマッチの公式記録では、155勝1敗9分であった。1敗は相手をフェンスアウトさせた反則負けであるため、実質的には無敗であった。(1980年代の新日本はフェンスの外に出たり相手を出したりすると反則負けというしょーもないルールがあった)

UWFで現役復帰

1984年7月、UWFの大会「無限大記念日」に出場し現役復帰した。その後、UWFに正式入団し、キックレガースの着用、試合間隔を月1回程度にすること、公式ルールの制定などの提案を行い、スポーツライクな競技を目指した。しかし、他の選手との考え方の違いが浮き彫りになる。

1985年9月2日、佐山に不信感を持った前田日明が、佐山との試合でセメントマッチを仕掛ける。

1985年10月、佐山はUWFを脱退する。

シューティング(修斗)設立

1985年12月、新しい 格闘技の団体「シューティング」を設立する。

1996年、修斗の運営から身を引く。

プロレス復帰

1994年、プロレス復帰し、新日本プロレスのリングに上がる。

1998年、アントニオ猪木が創設したUFOに参加し、小川直也を指導する。

その後は、プロレスに復帰したり、出なくなったり、また出たり、出なくなったり、の繰り返しである。

佐山聡が獲得したタイトル

NWA世界ミドル級王座
WWFジュニアヘビー級王座
NWA世界ジュニアヘビー級王座

 


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