■プロフィール
■アントニオ猪木‥
◆神奈川県横浜市出身
◆1943年2月20日生
◆190cm105kg
◆日本プロレス→新日本
■ブラジルで力道山からスカウトされる。
13歳の時に生まれ育った横浜からブラジルに移住する。ブラジルでは陸上選手として活躍し、砲丸投げで優勝するなどの実績を上げている。
1960年4月、ブラジル・サンパウロを訪れていた力道山からスカウトされ、帰国し日本プロレスに入団する。
1960年9月30日、プロレスデビューする。同じ日にジャイアント馬場もデビューしている。
1963年12月15日、力道山が死去する。
1964年、アメリカ修行に出発する。
豊登に口説かれ東京プロレスに参加するが短期間で戻る
1966年3月、前年末に日本プロレスを退社し、極秘でハワイに来ていた豊登に会い「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、日本プロレスから離脱し、東京プロレス設立に参加する。
1966年10月、新団体・東京プロレスの旗揚げ戦で、ジョニー・バレンタインと対戦し評価を得る。しかし、東京プロレスは客が入らず3か月で破産した。
日本プロレスに戻り「BI砲」で馬場とともに2大エースとなる。
1967年、猪木は日本プロレスに戻った。
会社は「猪木はまだ若く豊登に騙された」と解釈し、猪木に対しては強く追及せず、ほぼ元のとおりに戻った。
馬場と組んだタッグチーム「BI砲」は抜群の勝率を誇り、世界の強豪を相手にインターナショナルヘビー級王座の防衛を重ねた。
猪木は、UNヘビー級王座を獲得した
馬場の試合は日本テレビ、猪木の試合はNET(テレビ朝日)で放送され、日本プロレスの2大エースのようになった。
▲左=猪木・右=馬場
日本プロレスとの確執により追放される
猪木は、東京プロレスからの出戻りでありながら、馬場と並ぶ好待遇を受けていた。
しかし、馬場との対戦要求が受け入れられなかったことや、日本プロレスの経理の不透明さなどに不満を持っていた。
馬場を含む選手会も日本プロレスの経理の不透明さには不満があり、上層部を刷新する画策をしていた。
当初は、馬場と猪木を含む選手会一同は同意のうえで動いていた。
しかし、馬場の考えと猪木の考えの違いが現れ、猪木の行動は日本プロレスを乗っ取るクーデターだと解釈されてしまった。
猪木は日本プロレスを追放された。
倍賞美津子と結婚
1971年、女優の倍賞美津子と結婚した。
▲猪木・倍賞・馬場
■新日本プロレスを創立
1972年3月6日、新団体・新日本プロレスの旗揚げ戦を行った。
当初はテレビ放映がなく、外国人スターをなかなか呼べず、苦しい経営であった。
坂口征二の加入とテレビ朝日放映によりプロレス黄金時代を築く
1973年4月、日本プロレスから坂口征二が数人の選手とともに新日本プロレスに移籍した。
テレビ朝日は、坂口征二が新日本に移籍したことを機に新日本プロレス中継の放映をはじめた。
当初は、猪木と坂口は対等であり2大エースであったが、猪木が次々と大ヒット作を出し、坂口は猪木のサポート役をするようになった。
■新日本プロレスの数々の大ヒット作
アントニオ猪木は、しがらみや過去の慣例にしばられず、斬新なアイデアで次々と大ヒット作を飛ばした。
「アントニオ猪木 vs ストロング小林」当時は珍しかった日本人エースどうしの決戦
1974年2月、ストロング小林は所属団体・国際プロレスを退団しフリーとなり、ジャイアント馬場とアントニオ猪木に挑戦表明した。
これに対して、すぐに新日本プロレスがストロング小林獲得に動き、全日本プロレスは阻止に動いた。
国際プロレスが小林の契約違反を主張し双方譲らなかったが、東京スポーツが仲介に入り移籍金を負担することなどにより和解した。
1974年3月19日、蔵前国技館において、NWF世界ヘビー級選手権「アントニオ猪木 vs ストロング小林」が行われた。
この試合は、当時珍しかった日本人エースどうしの試合であり、大変話題を呼んだ。
結果は猪木がジャーマンスープレックスで小林に勝利した。猪木の最後の決め技ジャーマンスープレックスホールドは、首で二人分の体重を支え、美しい角度のジャーマンスープレックスであると評判を呼んだ。
▲猪木のジャーマンスープレックスホールド
■「アントニオ猪木 vs モハメドアリ」アリのリップサービスから本当に実現してしまった世紀の一戦
1975年3月、プロボクシングWBA・WBC統一世界ヘビー級チャンピオン・モハメドアリは、「100万ドルの賞金を用意するが、東洋人で俺に挑戦する者はいないか?」と発言した。
アントニオ猪木がアリのリップサービスに食いついた。
これは、日本レスリング協会会長に会った際、アリのリップサービスであり、本気にする人は誰もいなかった。
しかし、この発言にアントニオ猪木が食いついた。
猪木はアリに挑戦状を送ったが、当初は世間は冷めた反応だった。
しかし、東京に立ち寄ったアリが「レスリングで勝負してやる」などと発言したため、マスコミが騒ぎ出した。
アリのマネージャーはなかったことにしようと必死に動いたが、猪木はアメリカ・ヨーロッパに「猪木 vs アリ」をアピールし続けた。
ついに「猪木 vs アリ」が本当に実現
アリ側は猪木の挑戦表明を無視できなくなり、ルールやギャラについて交渉が始まった。
1976年3月25日、ニューヨークで調印式が行われ、ついに1976年6月26日、「アントニオ猪木 vs モハメドアリ」が正式決定した。
命がけの戦いだったが、世間の評価は「世紀の凡戦」
試合は終始、猪木が腰を降ろした状態からのローキックを打ち続け、アリのパンチはジャブが若干当たったぐらいで、一度も有効打はなかった。
一度だけ猪木が寝技に行くチャンスがあったが、数秒でブレイクされ、ひじ打ちで反則減点をとられた。
特に大きな展開はなく引き分けとなった。
試合後に真実が明かされ評価された
モハメドアリは、猪木から受けたローキックで血栓症を患い入院した。
猪木はキックで脛と足の指を骨折していた。
試合の真実が徐々に明かされるにつれて、この試合の壮絶さが明らかになり評価された。
■アントニオ猪木 vs アクラムペールワン
アントニオ猪木が、世界的スターであるモハメド・アリと試合し、世界的知名度を得たことにより、猪木との対戦相手にパキスタンの英雄であるアクラム・ペールワンが名乗りを挙げた。
両者の対戦は1976年12月12日にパキスタン・カラチのナショナルスタジアムで実現した。
試合では、ペールワンが猪木の腕に歯型の傷が付くほど強く噛み付き、猪木がペールワンの目に指を入れるような、異様な展開であった。
猪木がペールワンにアームロックを完全な形で極め、3ラウンド1分05秒ドクターストップで猪木の勝利となった。
ペールワンは、腕を脱臼し、片目の視力を失っていたがギブアップしなかった。
■ IWGP構想
1983年、猪木は世界統一タイトルの設立を発表し、その構想をIWGP「International Wrestling Grand Prix」と名付け、世界各地を転戦しながらリーグ戦を行い、世界統一チャンピオンを決定するというものだった。
計画があまりにも壮大で、全日本プロレスを含め世界各地のプロモーターからはなかなか協力を得られなかったが、日本、北米、米国、中南米、欧州の各代表10名が集い、リーグ戦が行われた。
リーグ戦の結果、アントニオ猪木とハルクホーガンが同点となり、1983年6月2日、蔵前国技館で決勝戦が行なわれた。
ハルクホーガンは猪木を場外で散々痛めつけた後、エプロンにふらふらと立った猪木にアックスボンバーを食らわせ、猪木は動かなくなり、ハルクホーガンのKO勝ちとなった。
負けた猪木のほうが話題をかっさらう
猪木がKOされた後、リング上で舌を出して倒れている猪木の姿がテレビで放映され、「あれは本当に舌を出していたのか?」「本当は演技ではないか?」等の噂や憶測が飛び交い、大きな話題となった。
優勝したハルクホーガンよりも負けた猪木のほうが話題をかっさらってしまった。
■引退カウントダウン
1994年5月1日、猪木引退カウントダウンシリーズが始まり、グレートムタ、スティング、リックフレアー、ウィリアムルスカ、ベイダーなどそうそうたるメンバーと対戦した。
1998年4月4日・東京ドームで行われた最後の試合の相手は、ドンフライだった。
試合は猪木がグラウンドコブラで勝利した。
■闘魂ビンタ「ビンタして喜ばれるのは俺だけ」
アントニオ猪木は、闘魂ビンタでプロレスファンのみならず、多くの人々に「闘魂注入」を行った。
「闘魂ビンタ」の始まりは、現役中の1990年5月に早稲田予備校の講演会からである。
その後、オファーする人々が増え、多くの有名人も「闘魂ビンタ」を受けた。
アントニオ猪木は後に「ビンタして喜ばれるのは俺だけ」と語った。
■最後のテレビ出演
2022年8月28日、日本テレビ「24時間テレビ・愛は地球を救う」に出演し、これが最後のテレビ出演となった。
■獲得したタイトル
プロレス大賞MVP(1974年・1976年・1977年・1978年・1979年・1980年・1981年)
NWAビッグタイム・レスリング
NWA世界タッグ王座(テキサス東部版)
NWAミッドアメリカ
NWA世界タッグ王座(ミッドアメリカ版)
USヘビー級王座:1回
UNヘビー級王座:1回
インターナショナル・タッグ王座
アジアタッグ王座
ワールドリーグ戦優勝
NWAタッグ・リーグ戦優勝
世界ヘビー級王座
WWFヘビー級王座
WWF世界マーシャルアーツ王座
NWFヘビー級王座
UWA世界ヘビー級王座
IWGPヘビー級王座
NWA北米タッグ王座(新日本プロレス版)
ワールドリーグ戦(新日本プロレス版)優勝
プレ日本選手権優勝
IWGPリーグ戦優勝
MSGシリーズ優勝
MSGタッグ・リーグ戦優勝
ジャパンカップ争奪タッグ・リーグ戦優勝
ジャパンカップ・イリミネーション・リーグ戦優勝
WCW殿堂
WWE殿堂