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1972.03.06-アントニオ猪木が新日本プロレス創設

日本プロレスを追放されたアントニオ猪木は、新しいプロレス団体「新日本プロレス」を創設した。

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アントニオ猪木が新日本プロレス創設

日本プロレスとの確執・追放

アントニオ猪木は、1967年に東京プロレスから日本プロレスに戻り、ジャイアント馬場とともに2大エースとして活躍した。しかし、馬場との対戦要求が受け入れられなかったことや、日本プロレスの経理の不透明さなどに不満を持っていた。

馬場を含む選手会も日本プロレスの経理の不透明さには不満があり、上層部を刷新する画策をしていた。当初は、馬場と猪木を含む選手会一同は同意のうえで動いていた。しかし、馬場の考えと猪木の考えの違いが現れ、猪木の行動は日本プロレスを乗っ取るクーデターだと解釈され、猪木は日本プロレスを追放された。

新日本プロレスを創立

1972年1月、アントニオ猪木は、新しいプロレス団体・新日本プロレスを設立した。

1972年3月6日、新日本プロレスの旗揚げ戦を行った。当初はテレビ放映がなく、外国人スターをなかなか呼べず、苦しい経営であった。

坂口征二参加とテレビ朝日放映

1973年4月、日本プロレスから坂口征二が数人の選手とともに新日本プロレスに移籍した。テレビ朝日は、坂口征二が新日本に移籍したことを機に新日本プロレス中継の放映をはじめた。

当初は、猪木と坂口は対等であり2大エースであったが、猪木が次々と大ヒット作を出し、坂口は猪木のサポート役をするようになった。

新日本プロレスの大ヒット作

アントニオ猪木 vs ストロング小林・・当時は珍しかった日本人エースどうしの決戦

1974年2月、ストロング小林は所属団体・国際プロレスを退団しフリーとなり、ジャイアント馬場とアントニオ猪木に挑戦表明した。これに対して、すぐに新日本プロレスがストロング小林獲得に動き、全日本プロレスは阻止に動いた。国際プロレスが小林の契約違反を主張し双方譲らなかったが、東京スポーツが仲介に入り移籍金を負担することなどにより和解した。

1974年3月19日、蔵前国技館において、NWF世界ヘビー級選手権「アントニオ猪木 vs ストロング小林」が行われた。この試合は、当時珍しかった日本人エースどうしの試合であり、大変話題を呼んだ。

結果は猪木がジャーマンスープレックスで小林に勝利した。猪木の最後の決め技ジャーマンスープレックスホールドは、首で二人分の体重を支え、美しい角度のジャーマンスープレックスであると評判を呼んだ。


▲猪木のジャーマンスープレックスホールド

アントニオ猪木 vs モハメドアリ・・アリのリップサービスから本当に実現してしまった世紀の一戦

1975年3月、プロボクシングWBA・WBC統一世界ヘビー級チャンピオン・モハメドアリは、「100万ドルの賞金を用意するが、東洋人で俺に挑戦する者はいないか?」と発言した。

アントニオ猪木がアリのリップサービスに食いついた。

これは、日本レスリング協会会長に会った際、アリのリップサービスであり、本気にする人は誰もいなかった。しかし、この発言にアントニオ猪木が食いついた。

猪木はアリに挑戦状を送ったが、当初は世間は冷めた反応だった。しかし、東京に立ち寄ったアリが「レスリングで勝負してやる」などと発言したため、マスコミが騒ぎ出した。アリのマネージャーはなかったことにしようと必死に動いたが、猪木はアメリカ・ヨーロッパに「猪木 vs アリ」をアピールし続けた。

ついに「猪木 vs アリ」が本当に実現

アリ側は猪木の朝鮮を無視できなくなり、ルールやギャラについて交渉が始まった。1976年3月25日、ニューヨークで調印式が行われ、ついに1976年6月26日、「アントニオ猪木 vs モハメドアリ」あが正式決定した。

命がけの戦いだったが、世間の評価は「世紀の凡戦」

試合は終始、猪木が腰を降ろした状態からのローキックを打ち続け、アリのパンチはジャブが若干当たったぐらいで、一度も有効打はなかった。一度だけ猪木が寝技に行くチャンスがあったが、数秒でブレイクされ、ひじ打ちで反則減点をとられた。特に大きな展開はなく引き分けとなった。

試合後に真実が明かされ評価された

モハメドアリは、猪木から受けたローキックで血栓症を患い入院した。猪木はキックで脛と足の指を骨折していた。試合の真実が徐々に明かされるにつれて、この試合の壮絶さが明らかになり評価された。

アントニオ猪木 vs アクラムペールワン

アントニオ猪木が、世界的スターであるモハメド・アリと試合し、世界的知名度を得たことにより、猪木との対戦相手にパキスタンの英雄であるアクラム・ペールワンが名乗りを挙げた。両者の対戦は1976年12月12日にパキスタン・カラチのナショナルスタジアムで実現した。

試合では、ペールワンが猪木の腕に歯型の傷が付くほど強く噛み付き、猪木がペールワンの目に指を入れるような、異様な展開であった。猪木がペールワンにアームロックを完全な形で極め、3ラウンド1分05秒ドクターストップで猪木の勝利となった。ペールワンは、腕を脱臼し、片目の視力を失っていたがギブアップしなかった。

 IWGP構想

1983年、猪木は世界統一タイトルの設立を発表し、その構想をIWGP「International Wrestling Grand Prix」と名付け、世界各地を転戦しながらリーグ戦を行い、世界統一チャンピオンを決定するというものだった。計画があまりにも壮大で、全日本プロレスを含め世界各地のプロモーターからはなかなか協力を得られなかったが、日本、北米、米国、中南米、欧州の各代表10名が集い、リーグ戦が行われた。

リーグ戦の結果、アントニオ猪木とハルクホーガンが同点となり、1983年6月2日、蔵前国技館で決勝戦が行なわれた。ハルクホーガンは猪木を場外で散々痛めつけた後、エプロンにふらふらと立った猪木にアックスボンバーを食らわせ、猪木は動かなくなり、ハルクホーガンのKO勝ちとなった。

G1クライマックス

1989年から新日本プロレス社長を務めていた坂口征二が発案し、1991年に第1回G1クライマックスが行われた。名前の由来は、競馬の「G1レース」であった。競馬ファンの坂口社長が名付け親であるという。

当時の新日本プロレスは、アントニオ猪木がレギュラー参戦をしなくなり、長州力と藤波辰爾がトップであり、1984年デビューの闘魂三銃士(武藤敬司・蝶野正洋・橋本真也)がトップを狙う実力を備えつつあった。

1991年の第1回は、出場者がAブロック4名・Bブロック4名であった。各ブロックで総当たりリーグ戦が行われ、各ブロックの成績1位どうしで決勝戦を行った。

Aブロックは武藤敬司が1位となり、Bブロックは蝶野正洋と橋本真也が同点となり決勝進出者決定戦で蝶野が勝利した。決勝戦の「武藤敬司 vs 蝶野正洋」では蝶野正洋がパワーボムで勝利し、第1回優勝者の栄冠を勝ち取った。このG1では、闘魂三銃士が上位を独占し、長州藤波時代からの世代交代を印象付けた。

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