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タモリ[タモリ](田辺エージェンシー)


■タモリ‥
◆福岡県福岡市出身
◆1945年8月22日生
◆早稲田大→朝日生命→旅行会社等→赤塚宅→オフィスゴスミダ→田辺エージェンシー

■略歴

1945年8月22日生まれ、福岡県福岡市出身である。

筑紫丘高校時代は吹奏楽部に所属しトランペットを担当した。

高校卒業後、浪人生活を送り、中国や韓国語のラジオを聞きまくり「インチキ外国語芸」を習得する。

「タモリ」となる

早稲田大在学中は、モダンジャズ研究会でトランペットを担当したが、主に司会を担当し、本名の「森田」をバンドマン読みをした「タモリ」となる。

早稲田大を授業料未払で抹席処分となり、バンドの司会の収入で暮らしていたが、福岡に引き戻される。

朝日生命に就職し、その後、結婚する。その後、旅行会社に入りボウリング場の支配人となる。

才能を見出される

1972年、山下洋輔と出会い、「インチキ外国語芸」などで才能を披露し、山下洋輔が九州に赴く際に会うようになる。

1975年、山下洋輔が中心となり「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」が結成され、1975年6月に上京する。その後は、月1で上京し即興芸を披露するという生活となる。

赤塚不二夫がタモリに惚れこみ東京に引き留め、徐々にテレビ出演が増える

赤塚不二夫がタモリの即興芸に惚れこんでしまい、福岡に返したくないと言い出し、自宅の4LDKマンションと自家用車のベンツを自由に使用することを了承し、タモリを自宅に居候させ、毎月数十万の小遣いも与えた。

赤塚不二夫は仕事場に寝泊まりするようになり、実質的には居候ではなく貸与となっていた。

山下洋輔のマネジメント事務所「オフィス・ゴスミダ」に所属し、徐々にテレビで注目され、テレビ出演が多くなる。

その後、本格的に芸能界に入るため田辺エージェンシーに所属する。

本格的に芸能界に入る

1976年、「空飛ぶモンティパイソン」「金曜10時うわさのチャンネル」に出演する。

このころの芸は、イグアナの形態模写、中洲産業大学教授、デタラメ言語「ハナモゲラ」などのキモイ芸であった。

1976年10月、ニッポン放送「オールナイトニッポン」のパーソナリティとなる。

その後、NHK「ばらえてい テレビファソラシド」、日本テレビ「今夜は最高」など多数の番組に出演し、深夜番組のお馴染みの顔となる

「笑っていいとも」に出演・31年半勤める

1982年、平日毎日昼12時からのフジテレビ「笑っていいとも」に出演し、徐々に視聴率が上昇し人気番組となり、タモリは「お昼の顔」となり、2014年3月まで31年半勤める。

「~してもいいかな?」「いいとも」というフレーズが世間に定着する。

紅白歌合戦の総合司会を務める・NHKで「いいとも」のフレーズをやる

1983年、「第34回NHK紅白歌合戦」の総合司会を務める。NHKアナウンサー以外では初の人選であり、異例中の異例であった。

「そろそろいってもいいかな?」「いいとも」というフジテレビの番組のフレーズをNHKでやるという暴挙に出た。


▲司会のタモリの姿を神妙な顔で見る三波春夫

数々の長寿番組を担当

1982年、テレビ朝日「タモリ倶楽部」がスタートし継続中である。

1987年、テレビ朝日「ミュージックステーション」の司会を関口宏から引き継ぎ、継続中である。

2008年、NHK「ブラタモリ」がスタートし継続中である。

「お笑いタレントBIG3」と言われるようになる

1980年代前半までは、「萩本欽一・タモリ・ビートたけし」が、「お笑いタレントBIG3」と言われていた。

1980年代後半から、萩本欽一が徐々にテレビ出演が減り、明石家さんまが「俺たちひょうきん族」でビッグスターになったことにより、お笑いタレントBIG3は「タモリ・ビートたけし・明石家さんま」と変わっていった。

大恩人・赤塚不二夫の告別式で白紙を見ながら弔辞をしたが「勧進帳」のギャグが理解されなかった

2008年、タモリの才能を見出した大恩人の赤塚不二夫が死去し、告別式では8分間の長い弔辞を述べた。弔辞の最後にタモリはこのように述べた。

私はあなたに生前お世話になりながら、ひと言もお礼を言ったことがありません。
それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。
あなたも同じ考えだということを他人を通じて知りました。
しかし今、お礼を言わさしていただきます。
赤塚先生、本当にお世話になりました。
ありがとうございました。
私もあなたの数多くの作品のひとつです。

タモリは、紙を見ながら弔辞を読み上げ、ときおり涙を浮かべていたが、読んでいる紙は白紙だった。

当初は紙に書く予定だったが、面倒になったので「勧進帳」のギャグをやったのだという。

マスコミの報道では「白紙を読み上げたタモリはすごい」という趣旨の記事が多く、「勧進帳」のギャグは全く理解されなかった。

タモリは吉永小百合の大ファン(サユリスト)


▲吉永小百合

タモリは、映画界の大スター・吉永小百合の大ファン(サユリスト)であることを公言している。

吉永小百合は、タモリと同じ1945年生まれであり、誕生日は吉永小百合が3月13日、タモリが8月22日である。

例年3月13日には、吉永小百合からタモリへの「お先に○○歳になりました」という趣旨のメッセージが「笑っていいとも」で紹介されていた。

バラエティーには滅多に出演しない吉永小百合が、2014年3月の「笑っていいとも」最終回の特別番組に中継で出演したときは大変感激した様子であった。

1998年頃、吉永小百合のシングルレコード作品「奈良の春日野」の歌詞で、鹿の様子を表現した「ふんふんふん~黒豆や~」という部分を、明石家さんまが鹿の格好で面白おかしく歌ったのには大変困惑していた。

【出典】https://ja.wikipedia.org/wiki/

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