■プロフィール

◆プロイセン王国(ドイツ)出身
◆1844年10月15日生
◆ボン大学⇒ライプツィヒ大学⇒バーゼル大学教授⇒思想家
◆実存主義の思想家
■略歴
生い立ち
1844年、プロイセン王国、ライプツィヒ近郊の村で生まれた。父はルター派の牧師で教鞭も執っていた。妹と弟が生まれ、5人家族で暮らしていたが、父が転倒事故で亡くなり、弟が病死する。その後、母と妹と共にナウムブルクに移住し、祖母、祖母の兄、叔母と共同生活をする。
小学生の頃から校則に厳格であり、学校からの帰宅時に走ることを校則で禁じられていたことから、にわか雨が降っても走らないで帰ったという。
ボン大学在学時代・・リッチェルに師事
1864年、プフォルター学院を卒業後、ボン大学に進学する。
古典文献学の研究に興味を持ち、古典文献学の研究で有名なフリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュルに師事する。
古典文献学への傾倒に伴い、母の反対を押し切り、信仰を捨てている。
ライプツィヒ大学時代・・ワーグナーとの出会い
リッチェルがライプツィヒ大学に転属になったのに伴い、自分もライプツィヒ大学に転学する。
ショーペンハウエルの著書に感銘を受け、これ以降影響を受ける。リッチェルの紹介でリヒャルト・ワーグナーと出会う。
バーゼル大学教授時代・・初の著書が悪評
1869年、リッチェルの推薦によりバーゼル大学からの招聘でバーゼル大学教授となる。
1872年、初の著書「悲劇の誕生」を出版するが、古典文献学的手法によらず哲学的推論が中心であったこととワーグナーへの賛美が目立ちすぎたことから評判が悪く、ニーチェの講義のほとんどの聴講者が姿を消した。
1878年、格言集「人間的な、あまりにも人間的な」を出版する。
教授を退職し執筆活動に専念・・恋に破れ大作を執筆
1879年、体調の悪化によりバーゼル大学を退職し、以後は執筆活動に専念している。
1882年、ニーチェはルー・ザロメに求婚し、同じ頃に友人のパウル・レーもルー・ザロメに求婚しており、三角関係となる。妹のエリザーベトがニーチェの印象を悪くするようにしむけたことにより、ニーチェは恋に破れる。
ニーチェは、失恋、病気、母や妹との不和、孤独、自殺願望などの苦悩の一切から解放されるため、「ツァラトゥストラはかく語りき」の第1部を書き上げる。
晩年・・妹の支配が強まる
1886年、妹のエリザーベトが、反ユダヤ主義者と結婚し、ニーチェと対立して離れる。その後、エリザーベトは夫と死別し、体調が悪い兄の面倒を見るようになる。エリザーベトは徐々にニーチェの原稿の出版などに関する影響力を強める。
死去・・遺稿が誤解を生む
1900年8月25日、ニーチェは肺炎で死去した。55歳であった。
エリザーベトがニーチェの遺稿を編纂し「力への意思」を刊行した。当著作には恣意的な編集が行われたため、後年、ニーチェの思想がナチズムに通じるとの誤解を生むことになった。
■主な著書
「悲劇の誕生」
「反時代的考察」
「人間的な、あまりにも人間的な」
「曙光」
「悦ばしき知識」
「ツァラトゥストラはかく語りき」