◆明治維新からの政治体制
アメリカのペリー提督が黒船で日本に来航
19世起中頃のアメリカは、アジア政策でイギリスに後れを取っていたため、太平洋に勢力を広げる必要があった。そのためには、日本に大型船が寄港できる港を用意してもらうことが必要であった。
1853年7月8日、アメリカのペリー提督がフィルモア大統領の親書を携え、日本に開国を要求するため浦賀に来航した。
▲ペリー提督・・武力で日本に開国を要求
黒船来航による日本の騒動
黒船は7月17日まで東京湾に停泊し、その間、日本とアメリカの交渉が行われ、アメリカから日本への要求が伝えられた。
アメリカ独立記念日の祝砲などの目的で、黒船から数十発の空砲が発射され、江戸は恐怖で大混乱となったが、やがて、それが空砲だということが知れると、江戸庶民は花火感覚で大喜びし、黒船来航を伝える瓦版が飛ぶように売れた。
▲黒船来航を伝える瓦版(横浜開港資料館蔵)
明治維新・政治改革を短期間に戦争と並行して実行
1853年の黒船来航からの日本は、江戸幕府体制から天皇中心の政治体制への移行、富国強兵政策の推進など、短期間に急速に改革が行われた。
短期間に急速に進められた改革には強い反発が多く、何度も戦争が起こったが、戦争と同時進行で改革が進められた。
▲大政奉還(聖徳絵画記念館所蔵)
主な出来事
1853年~1858年-黒船来航により開国
1867年-大政奉還・王政復古の大号令
1868年-戊辰戦争開戦、江戸開城、明治新政府成立
1869年-戊辰戦争終結、版籍奉還
1871年~1873年-岩倉使節団を米欧遊学
1871年-廃藩置県
1873年-明治六年政変(征韓論政変)
1877年-西南戦争
改革を進めたのは主に薩長土肥
この改革を進めたのは、主に公家出身の岩倉具視と、薩摩藩(鹿児島)、長州藩(山口)、土佐藩(高知)、肥前藩(佐賀)いわゆる「薩長土肥」の藩士達であった。
特に薩摩と長州は力が強く、明治維新後も日本の政治体制に強い影響力があった。
明治維新で特に有名な人
【公家】岩倉具視
【薩摩】西郷隆盛・大久保利通・黒田清隆
【長州】木戸孝允・高杉晋作・伊藤博文・山縣有朋・井上馨
【土佐】坂本龍馬・板垣退助
【肥前】江藤新平・大隈重信
▲岩倉具視・・政局分析力で倒幕を実現
▲木戸孝允(桂小五郎)・・剣豪だが武より和を重視
▲西郷隆盛・・人物の大きさで歴史を動かした
▲大久保利通・・冷徹な判断力と実務能力があった
◆長州の伊藤博文と山縣有朋の政治
明治維新の偉人たちが次々と死去し伊藤博文と山縣有朋が台頭
江戸幕府打倒から明治維新の改革を実行し、明治新政府にも強い影響力を持っていた偉人たちが40代位の働き盛りの年齢で次々と亡くなり、伊藤博文と山縣有朋が明治政府で権力を握った。その後、政府の相談役として君臨した岩倉具視も死去した。
伊藤と山縣の先輩方は次々と死去
1877年【長州】木戸孝允病死
1877年【薩摩】西郷隆盛戦死
1878年【薩摩】大久保利通暗殺
1883年【公家】岩倉具視病死
伊藤博文と山縣有朋は首相を何度か務め、首相退任後も様々な立場で権力を維持した。伊藤は政治体制の確立、山縣は軍事の強化を進め、近代国家の基礎を構築する中心を担った。
▲伊藤博文・・女性問題を差し引いても日本の近代化への貢献度は絶大
▲山縣有朋・・軍事体制の強化に貢献
伊藤と山縣が権力を維持し長州閥が強くなる
1873【土佐】板垣退助⇒明治6年の政変で失脚
1881【肥前】大隈重信⇒明治14年の政変で失脚
1885【長州】伊藤博文⇒初代首相(通算4回)
1889【長州】山縣有朋⇒第3代首相(通算2回)
山縣有朋が軍の独立組織「参謀本部」を設置
1877年(明治10年)、西南戦争で新政府軍の指揮を執った山縣有朋は、軍事作戦について、いちいち政府の承認を得ながら執行しなければならない体制に疑問を持った。
1878年(明治11年)、山縣は参謀局を改革して参謀本部をつくり、軍の組織を拡大し権威を持たせた。
参謀本部条例により軍の独立性を成文化
山縣有朋は、自分が参謀本部長に就任し、参謀本部条例をつくり、軍の独立性を成文化した。
参謀本部第二条「帷幄の軍務に参画する」⇒参謀本部は天皇直属
帷幄とは天皇の直接の幕下というような意味である。つまり、参謀本部は天皇の直属の組織であり、権力のトップである太政大臣の部下ではないということである。
参謀本部第五条「親裁の後直ちに之を陸軍卿に下して施工せしむ」⇒陸軍大臣は参謀本部長のいうがままに動く
天皇の決済がされた後は、参謀本部長が陸軍大臣に伝えて実行させるということである。つまり、陸軍大臣が参謀本部長のいうがままに行動しなければならないということになる。
▲明治十一年・参謀本部条例(国立公文書館所蔵)
内閣制度発足・伊藤と山縣が首相を歴任
1885年(明治18年)、太政官制度が廃止され、新たに内閣制度が創設された。
内閣総理大臣と各大臣による内閣が組織され、伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命された。
以下は、内閣の裁可書の一部である。
伊藤博文が内閣総理大臣と宮内大臣を兼任し、山縣有朋は内務大臣となっている。
▲明治十八年・内閣の裁可書(国立公文書館所蔵)
大日本帝国憲法「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が発布され、第十一条「天皇は陸海軍を統帥す」第十二条「天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む」と記されたことにより、陸海軍の統帥権が天皇陛下にあることが明文化された。
参謀本部条例は削除されず継続
参謀本部条例は削除されず継続されていたため、天皇の統帥権と参謀本部の独立性が完全に明文化されたことになり、陸海軍の独立性が完全に確立した。
以下は、大日本帝国憲法発布に際して発せられた勅語(官報号外に掲載)の一部である。伊藤博文は枢密院議長の立場で署名している。山縣有朋は当時は欧州視察のため不在であった。
▲明治二十二年・大日本帝国憲法に関する勅語(国立公文書館所蔵)