明治維新からの政治体制
短期間に急速な改革を実行・戦争と並行して改革を実行
1853年の黒船来航からの日本は、江戸幕府体制から天皇中心の政治体制への移行、富国強兵政策の推進など、短期間に急速に改革が行われた。
短期間に急速に進められた改革には強い反発が多く、何度も戦争が起こったが、戦争と同時進行で改革が進められた。
主な出来事
1853年~1858年-黒船来航により開国
1867年-大政奉還・王政復古の大号令
1868年-戊辰戦争開戦、江戸開城、明治新政府成立
1869年-戊辰戦争終結、版籍奉還
1871年~1873年-岩倉使節団を米欧遊学
1871年-廃藩置県
1873年-明治六年政変(征韓論政変)
1877年-西南戦争
改革を進めたのは主に薩長土肥
この改革を進めたのは、主に公家出身の岩倉具視と、薩摩藩(鹿児島)、長州藩(山口)、土佐藩(高知)、肥前藩(佐賀)いわゆる「薩長土肥」の藩士達であった。
特に薩摩と長州は力が強く、明治維新後も日本の政治体制に強い影響力があった。
明治維新の特に有名な人
【公家】岩倉具視
【薩摩】西郷隆盛・大久保利通・黒田清隆
【長州】木戸孝允・高杉晋作・伊藤博文・山縣有朋
【土佐】坂本龍馬・板垣退助
【肥前】江藤新平・大隈重信
長州の伊藤博文と山縣有朋の政治
明治維新の偉人たちが次々と死去し伊藤博文と山縣有朋が台頭
江戸幕府打倒から明治維新の改革を実行し、明治新政府にも強い影響力を持っていた偉人たちが40代位の働き盛りの年齢で次々と亡くなり、伊藤博文と山縣有朋が明治政府で権力を握った。その後、政府の相談役として君臨した岩倉具視も死去した。
伊藤博文と山縣有朋は首相を何度か務め、首相退任後も様々な立場で権力を維持した。伊藤は政治体制の確立、山縣は軍事の強化を進め、近代国家の基礎を構築する中心を担った。
伊藤と山縣の先輩方は次々と死去
1877年【長州】木戸孝允病死
1877年【薩摩】西郷隆盛戦死
1878年【薩摩】大久保利通暗殺
1883年【公家】岩倉具視病死
伊藤と山縣が権力を維持し長州閥が強くなる
1873【土佐】板垣退助⇒明治6年の政変で失脚
1881【肥前】大隈重信⇒明治14年の政変で失脚
1885【長州】伊藤博文⇒初代首相(通算4回)
1889【長州】山縣有朋⇒第3代首相(通算2回)
▲伊藤博文
▲山縣有朋
内閣制度発足・伊藤と山縣が首相を歴任
1885年(明治18年)、太政官制度が廃止され、新たに内閣制度が創設された。
内閣総理大臣と各大臣による内閣が組織され、伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命された。
以下は、内閣の裁可書の一部である。
伊藤博文が内閣総理大臣と宮内大臣を兼任し、山縣有朋は内務大臣となっている。
※【出典】https://www.archives.go.jp/
大日本帝国憲法「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が発布された。
第十一条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と記されたことにより、陸海軍の統帥権が天皇陛下にあることが明確になった。
以下は、大日本帝国憲法発布に際して発せられた勅語(官報号外に掲載)の一部である。
第十一条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と書かれている。
伊藤博文は枢密院議長の立場で署名している。山縣有朋は当時は欧州視察のため不在であった。
※【出典】https://www.archives.go.jp/
日本が無謀な戦争をした原因【1】政治体制の欠陥「統帥権独立」
大日本帝国の政治体制は、大日本帝国憲法に、統帥権が天皇にあることが明記され、様々な憲法解釈や立法がされ、太平洋戦争の時期には、以下の図のような構造となっていた。
陸海軍を指揮し統率する権限「統帥権」は、すべて天皇直轄となっていた。
帷幄上奏権・軍部大臣現役武官制から産まれた「魔法の杖」
昭和の日本の政治体制は、帷幄上奏権と軍部大臣現役武官制により、軍部の決定が内閣や議会より優先されるという状況になっていった。
帷幄上奏権
陸海軍は、内閣に介入されることなく、天皇に直接、上奏(天皇に意見を言う)することが認められていた。
軍部大臣現役武官制
軍部大臣に陸海軍の現役の武官が就く制度である。
内閣が陸海軍の方針に逆らうと、陸海軍は、内閣の一員である軍部大臣の就任を拒否し、軍部大臣が欠員となる内閣は機能できず、内閣が総辞職に追い込まれた。
「魔法の杖」の成立
帷幄上奏権と軍部大臣現役武官制により、陸海軍は、内閣に介入されずに方針を通し、議会は軍の方針の通りに予算を承認せざるを得なかった。
陸海軍は、国民から集めた税金を湯水のように使い、戦争を続けることができた。
これを作家の司馬遼太郎は「魔法の杖」と表現した。
天皇の姿勢「君臨すれども統治せず」
「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」⇒「君臨すれども統治せず」
大日本帝国憲法・第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」の規定から、統帥権は昭和天皇が持っていた。しかし昭和天皇は「君臨すれども統治せず」の原則を守り、質問や意見を言うことはあるが、最終的には軍の方針の通りに承認した。それにより、陸海軍は独断で軍事行動をすることが可能となった。
昭和天皇の後悔
昭和天皇は、1928年の張作霖爆殺事件に対する田中首相の対応に不満を持ち、田中首相の責任を追及し叱責した。この後、田中内閣は総辞職し、田中首相は天皇に叱責されたことを重く受け止め心に病み、その後、狭心症で死去した。昭和天皇は、臣下を叱責したことにより、結果的に死に追いやったのではないかと反省し、これ以降は、臣下の提案に質問や意見は言うものの、最終的には提案の通りに承認した。
【参考】現行憲法では自衛隊の最高指揮監督権は内閣総理大臣が持つ
現状の日本国憲法では、自衛隊は、内閣総理大臣の命令がなければ軍事行動等の重要な任務に関わる行動は一切できない。
また、内閣、国会、裁判所の三権は、それぞれがチェックし合い、どこも暴走できない仕組みとなっている。