1954.12.22-力道山vs木村政彦・・高度な思考を求められた謎の一戦

力道山vs木村政彦までの経緯

1954年に力道山がプロレスをはじめるまで、日本には本格的なプロレスといえるものはなかった。柔道家がプロとなり興行を行ったり、女子プロレスのようなもの(今でいうキャッとファイトのようなもの)はあったが、継続的ではなく世間では認知されていなかった。

最強の柔道家・木村政彦は、プロ柔道などをやっていた。

1950年~1953年頃、木村政彦は、日本でプロ柔道に参加するが経営が破たんし、ハワイに渡りプロレス興行に参加したりしていた。

大相撲出身の力道山が日本でプロレスをはじめた。

力道山は、1950年に大相撲を廃業してからは、建設会社で仕事をしていたが、日本に遠征していたアメリカのプロレス団体の日系人プロレスラーであるハロルド坂田と知り合い、プロレスの存在を知り、プロレスラーになる事を決意する。

1952年ごろから、アメリカに渡りプロレス修業、大相撲時代の後援者の協力でプロレス団体を設立するなど、着々と準備を進めた。

1954年2月、カナダ出身でアメリカで活動していたプロレスラー"シャープ兄弟"を日本に招き、プロレス興行14連戦を敢行した。

1954.2.19-日本のプロレスの夜明け・・力道山・木村政彦 vs シャープ兄弟が大ヒット

プロレス興行14連戦は、日本中で大ヒットとなった。試合会場が連日満員となり、このころ始まったテレビでプロレスの試合が放映され、街頭テレビに大勢の人が集まった。

最高の黄金カードは「力道山・木村政彦vsシャープ兄弟」であった。あっというまにプロレスは日本中で大ブームとなった。これが日本のプロレスの夜明けといってよい。


▲街頭テレビの前に集まる大群衆

タッグパートナー木村政彦に不満がたまる。

力道山が遂行した、実質的に日本で初となるプロレス興行は、テレビ放送の効果もあり大ヒットとなった。
力道山が空手チョップでアメリカのレスラーに立ち向かう姿は、敗戦から立ち直ろうとしている日本の民衆にとって痛快であった。

黄金カードは、「力道山・木村政彦vsシャープ兄弟」であり、木村政彦がアメリカのレスラーの攻撃を耐え忍び、最後に力道山が空手チョップでアメリカのレスラーをバッタバッタとなぎ倒して勝つ、というのが定番であった。

力道山のタッグパートナーであった木村政彦は、柔道界で「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」といわれた史上最強の柔道家であった。
木村は、力道山の空手チョップが日本中で大喝采を受け、自分は引き立て役になっていることが不満であった。
自分は柔道界最強であり、大相撲で関脇どまりの力道山より下に思われることは屈辱であった。


▲木村政彦

1954.12.22-力道山vs木村政彦・・試合結果は力道山のKO勝ちだが、異様な雰囲気となった。

木村政彦は、「今までの試合はショーであり、真剣勝負であれば力道山に負けない」という主旨の発言を新聞紙上で公開し、力道山に一騎打ちで対戦を申し出た。
力道山はこれに応じ、1954年12月22日、「力道山vs木村政彦」が蔵前国技館で行われた。


▲鬼気迫る表情で木村に迫る力道山

試合の序盤は、両者とも組み合ったり投げを打ったりなどの、技の応酬をしていた。
しかし突然、力道山が木村に右拳のパンチを打ち、不意を突かれた木村がよろめき、力道山が張り手の滅多打ちをし、木村はマットに倒れた。
木村は、歯は折れ、瞼は切れ、流血した。試合は力道山のKO勝ちとなった。

木村は意識を失い、リングサイドにいた関係者が木村を起こそうとするが、木村は立ち上がることができなかった。
木村の師匠の牛島辰熊がリングに上がり、木村を兄のように慕っていた大山倍達が力道山に挑戦表明をしたが相手にされなかった。

リング上の異様な雰囲気に、観客は静まり返り、力道山の勝利を喝采を送るような雰囲気ではなかった。

力道山vs木村政彦・・高度な思考が要求される謎の試合

「力道山vs木村政彦」は、プロレスの存在とプロレスの楽しさを初めて知ったばかりの日本民衆に様々な波紋を広げた。
当時の日本はプロレスが始まったばかりで、プロレスラーの専門家がまだいないという状態であった。
人によっては「力士vs柔道」という見方をし、人によっては「日本一決定戦」「昭和の巌流島」という見方をした。
新聞紙上にもそのようなタイトルが躍った。

力道山は、「木村が急所を蹴ったので逆上してしまい、あのような結果になってしまったことを反省している」と述べた。
しかし、力道山と木村は事前に話し合い、適当に技の応酬をして引き分けに持ち込み、勝負をつけずに何試合もやろうということになっていたが、力道山が裏切ったという噂が絶えなかった。

日本の民衆は、「プロレスは真剣勝負なのか?ショーなのか?」という、高度な思考を求められた。

明暗を分けた力道山と木村政彦

力道山は、木村に勝利したことにより、完全にプロレス界のエースとなり、国民的スターとなっていった。
一方、木村政彦は、柔道界からも存在自体を認めないというような扱いを受け、世間から忘れられていった。

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力道山vs木村政彦までの経緯

1954年に力道山がプロレスをはじめるまで、日本には本格的なプロレスといえるものはなかった。柔道家がプロとなり興行を行ったり、女子プロレスのようなもの(今でいうキャッとファイトのようなもの)はあったが、継続的ではなく世間では認知されていなかった。

最強の柔道家・木村政彦は、プロ柔道などをやっていた。

1950年~1953年頃、木村政彦は、日本でプロ柔道に参加するが経営が破たんし、ハワイに渡りプロレス興行に参加したりしていた。

大相撲出身の力道山が日本でプロレスをはじめた。

力道山は、1950年に大相撲を廃業してからは、建設会社で仕事をしていたが、日本に遠征していたアメリカのプロレス団体の日系人プロレスラーであるハロルド坂田と知り合い、プロレスの存在を知り、プロレスラーになる事を決意する。

1952年ごろから、アメリカに渡りプロレス修業、大相撲時代の後援者の協力でプロレス団体を設立するなど、着々と準備を進めた。

1954年2月、カナダ出身でアメリカで活動していたプロレスラー"シャープ兄弟"を日本に招き、プロレス興行14連戦を敢行した。

1954.2.19-日本のプロレスの夜明け・・力道山・木村政彦 vs シャープ兄弟が大ヒット

プロレス興行14連戦は、日本中で大ヒットとなった。試合会場が連日満員となり、このころ始まったテレビでプロレスの試合が放映され、街頭テレビに大勢の人が集まった。

最高の黄金カードは「力道山・木村政彦vsシャープ兄弟」であった。あっというまにプロレスは日本中で大ブームとなった。これが日本のプロレスの夜明けといってよい。


▲街頭テレビの前に集まる大群衆

タッグパートナー木村政彦に不満がたまる。

力道山が遂行した、実質的に日本で初となるプロレス興行は、テレビ放送の効果もあり大ヒットとなった。
力道山が空手チョップでアメリカのレスラーに立ち向かう姿は、敗戦から立ち直ろうとしている日本の民衆にとって痛快であった。

黄金カードは、「力道山・木村政彦vsシャープ兄弟」であり、木村政彦がアメリカのレスラーの攻撃を耐え忍び、最後に力道山が空手チョップでアメリカのレスラーをバッタバッタとなぎ倒して勝つ、というのが定番であった。

力道山のタッグパートナーであった木村政彦は、柔道界で「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」といわれた史上最強の柔道家であった。
木村は、力道山の空手チョップが日本中で大喝采を受け、自分は引き立て役になっていることが不満であった。
自分は柔道界最強であり、大相撲で関脇どまりの力道山より下に思われることは屈辱であった。


▲木村政彦

1954.12.22-力道山vs木村政彦・・試合結果は力道山のKO勝ちだが、異様な雰囲気となった。

木村政彦は、「今までの試合はショーであり、真剣勝負であれば力道山に負けない」という主旨の発言を新聞紙上で公開し、力道山に一騎打ちで対戦を申し出た。
力道山はこれに応じ、1954年12月22日、「力道山vs木村政彦」が蔵前国技館で行われた。


▲鬼気迫る表情で木村に迫る力道山

試合の序盤は、両者とも組み合ったり投げを打ったりなどの、技の応酬をしていた。
しかし突然、力道山が木村に右拳のパンチを打ち、不意を突かれた木村がよろめき、力道山が張り手の滅多打ちをし、木村はマットに倒れた。
木村は、歯は折れ、瞼は切れ、流血した。試合は力道山のKO勝ちとなった。

木村は意識を失い、リングサイドにいた関係者が木村を起こそうとするが、木村は立ち上がることができなかった。
木村の師匠の牛島辰熊がリングに上がり、木村を兄のように慕っていた大山倍達が力道山に挑戦表明をしたが相手にされなかった。

リング上の異様な雰囲気に、観客は静まり返り、力道山の勝利を喝采を送るような雰囲気ではなかった。

力道山vs木村政彦・・高度な思考が要求される謎の試合

「力道山vs木村政彦」は、プロレスの存在とプロレスの楽しさを初めて知ったばかりの日本民衆に様々な波紋を広げた。
当時の日本はプロレスが始まったばかりで、プロレスラーの専門家がまだいないという状態であった。
人によっては「力士vs柔道」という見方をし、人によっては「日本一決定戦」「昭和の巌流島」という見方をした。
新聞紙上にもそのようなタイトルが躍った。

力道山は、「木村が急所を蹴ったので逆上してしまい、あのような結果になってしまったことを反省している」と述べた。
しかし、力道山と木村は事前に話し合い、適当に技の応酬をして引き分けに持ち込み、勝負をつけずに何試合もやろうということになっていたが、力道山が裏切ったという噂が絶えなかった。

日本の民衆は、「プロレスは真剣勝負なのか?ショーなのか?」という、高度な思考を求められた。

明暗を分けた力道山と木村政彦

力道山は、木村に勝利したことにより、完全にプロレス界のエースとなり、国民的スターとなっていった。
一方、木村政彦は、柔道界からも存在自体を認めないというような扱いを受け、世間から忘れられていった。

■歴史

  • 1954.12.22-力道山vs木村政彦・・高度な思考を求められた謎の一戦1954.12.22-力道山vs木村政彦・・高度な思考を求められた謎の一戦
    日本のプロレスファンは、高度な思考を求められる試合を、この時期から経験していた。
  • ■【歴史】1931年9月18日・・満州事変勃発(柳条湖事件)■【歴史】1931年9月18日・・満州事変勃発(柳条湖事件)
    昭和の15年戦争の始まり
  • 【歴史】日本が無謀な戦争をした原因【1】政治体制の欠陥【歴史】日本が無謀な戦争をした原因【1】政治体制の欠陥
    政治体制の欠陥 ・・統帥権独立 ・・帷幄上奏権 ・・軍部大臣現役武官制
  • 【歴史】日本が無謀な戦争をした原因【はじめに】昭和の戦争がいかに無残だったか【歴史】日本が無謀な戦争をした原因【はじめに】昭和の戦争がいかに無残だったか
    戦争の経過・犠牲者数等 無謀な戦争をした原因 3つの原因は現在にはないのか
  • 【歴史】日本が無謀な戦争をした原因【序論】明治の近代化は軍事中心だった【歴史】日本が無謀な戦争をした原因【序論】明治の近代化は軍事中心だった
    ペリー来航と明治維新 伊藤博文と山縣有朋の政治 内閣制度と憲法発布
  • 紀元後5世紀~7世紀・・中国の冊封体制からの自立
    律令国家の形成・「日本国」の成立 渡来人の技術の導入(ワカタケル大王の時代) 475年、高句麗の大軍により百済の都・漢城が陥落した。それにより百済から多数の人々が日本に渡来した。 日本の技術向上に貢献渡来人たちは、陶作・錦織・鞍作・画などの技術を持ち、東漢氏などを中心に組織化された技術者集団を形成していることもあり、日本の技術の向上面に大いに貢献した。 文字や文書作成の知識をもたらす渡来人たちは、漢字を用いて日本の様々な記録や外交文書の作成なども行い、日本の中央集権体制の整備に大いに貢献し、後の律令政治の礎になったと考えられる。 天皇の系譜の明確化このころから天皇の系譜と歴史書の整合が見られるようになる。この時代は第21代・雄略天皇(武王・ワカタケル王)の時代に相当する。 日本と朝鮮半島との関係性の変化 伽耶が百済と新羅に支配され日本の支配力も落ちる562年、日本がそれまで朝鮮半島の拠点としていた伽耶が百済と新羅の支配下に入ったため、日本は朝鮮半島における支配力を急速に失った。 日本の製鉄技術の向上そのころまでには、渡来人からの様々な技術が活かされ、砂鉄を素材とする製鉄法が開発された。 朝鮮半島への依存度の低下日本は鉄の自給が可能となりつつあり、朝鮮半島への依存度は下がっていた。 蘇我氏の権力掌握 蘇我氏と物部氏の権力争い6世紀頃、蘇我氏と物部氏がヤマト王権の要職を担うようになり、両家の権力争いが激しくなっていた。 物部氏の没落587年、蘇我馬子は厩戸皇子(聖徳太子)・泊瀬部皇子・竹田皇子の軍勢を率い、物部守屋を討ち、物部氏を没落させることに成功した。 蘇我馬子が権力を掌握蘇我馬子は、泊瀬部皇子を第32代・崇峻天皇として即位させ、完全に権力を掌握した。(※崇峻天皇と厩戸皇子は、どちらも蘇我馬子の娘の夫である。) 崇峻天皇の反発その後、崇峻天皇は即位から何年たっても政治に介入する蘇我馬子に不満を持ち、様々な形で不満が表面化するようになった。 崇峻天皇殺害592年、蘇我馬子は、崇峻天皇を部下に殺害させた。崇峻天皇が儀式に臨席しているときに部下に暗殺させるという暴挙であった。 蘇我馬子と厩戸皇子(聖徳太子)の政治 女性天皇が誕生蘇我馬子は、姪の額田部皇女を史上初の女性天皇である推古天皇として即位させた。 蘇我馬子と厩戸皇子の強固な政治体制厩戸皇子が推古天皇を補佐し、蘇我馬子・厩戸皇子・推古天皇が強固な政治体制を築き上げた。 厩戸皇子による政治改革厩戸皇子は、安定した政治基盤の下で、中国の政治を手本とした革新的な政治改革を推し進めた。代表的なものとして冠位十二階や十七条憲法などがある。これにより、律令国家の礎が築かれた。 遣隋使・遣唐使の派遣 5世起の日本は中国の冊封体制に組み込まれていた 5世紀の五代の倭王(讃・珍・済・興・武)の時代は、日本は完全に中国の冊封体制に組み込まれており、中国の属国のような存在であった。 当時は、朝鮮半島南部の製鉄等の技術を導入することが最優先事項であり、中国に国の威厳を示すことよりも中国との衝突を避けるほうが優先であった。 日本の課題は中央集権体制確立と国の威厳 厩戸皇子(聖徳太子)の政治改革が始まった6世紀後半は、既に日本独自の製鉄技術は確立されつつあった。 そのため、朝鮮南部の技術の導入よりも、国内の中央集計体制の確立が優先事項となっていた。 当時の最重要課題は、世界最強の大国であった中国の隋王朝との良好な関係を維持しつつ、日本の国としての存在を認めさせ、それによって国内の政権の威厳を保つことであった。 遣隋使の派遣 厩戸皇子(聖徳太子)は、600年、隋に使者を派遣した。 これは、遣隋使と呼ばれ、この後も引き続いて実施され、894年までの間に19回程度派遣されている。 618年に中国で隋から唐に政権が交代しても引き続き実施され、遣唐使と呼ばれた。 遣隋使・遣唐使の成果 第1回遣隋使(600年) 第1回の遣隋使は600年に派遣された。 隋の文皇帝(高祖)が、倭国(日本)の現状などについて尋ねたところ、以下のように回答した。 「天をもって兄とし、日をもって弟とする。いまだ夜が明ける前に出て跏趺して政治を聴き、日が出ると仕事を止めて弟に委ねる」 文皇帝は日本を対等な国と認めなかった文皇帝は、この回答を聞き、倭国(日本)に対して概ね以下のような考えを持ち倭国の使いに伝えたと考えられている。◆倭国の政治の在り方は道理にかなったものではない。◆倭国は隋と外交を行うレベルにはない。 厩戸皇子は政治改革の必要性を痛感この結果から、ヤマト王権の政治を実質的に担っていた厩戸皇子(聖徳太子)は、隋の政治を参考とした政治改革を進める必要性を強く感じた。 その後、前出した冠位十二階や十七条憲法の制定などの政治改革が進められた。 第2回遣隋使(607年) 第2回の遣隋使は607年に派遣された。 小野妹子が隋の煬帝に対する国書を携えて派遣された。 その国書の中の文面に以下のような文言が記されていた。 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」(※日出ずる処=日本、日没する処=隋、文の意味=日本の天子が隋の天子に書を授ける) 日本の王を天子と表現し煬帝は立腹これを見た煬帝は立腹し、外交担当官に「今後、このような無礼な蝦夷の所はいちいち自分に見せるな」と言ったと言われている。 煬帝が立腹した理由は、隋に天子がいるのに日本の王を天子と表現したことであり、隋を日没する処と表現したことではないと考えられている。 国書の内容はレベルアップしていた倭国が隋に示した文言は、煬帝を怒らせてしまう表現が一部にみられたものの、第1回遣隋使の時と比べると格段にレベルアップされていた。「海の西の菩薩天子が仏教を興隆させているので学ばせてほしい」(趣意)と記しており、倭国の天子の存在をアピールしながらも、隋の天子が一段上のように表現する配慮も見せている。 隋に配慮しつつ倭国の存在をアピール 国書は「隋の政治体制に習い、仏教を中心とした国造りを目指す」ということが強調されていた。 また、隋の皇帝を菩薩天子と持ち上げながらも、倭国の天子の存在もアピールしている。 結果的には、返書とともに煬帝の勅使として裴世清が派遣され、小野妹子の帰国に同行して倭国を訪れた。 隋は、倭国に対する外交姿勢を改め、一つの国家としての存在として認めた面があったのではないかと考えられる。 ■歴史
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