力道山vs木村政彦までの経緯
1954年に力道山がプロレスをはじめるまで、日本には本格的なプロレスといえるものはなかった。柔道家がプロとなり興行を行ったり、女子プロレスのようなもの(今でいうキャッとファイトのようなもの)はあったが、継続的ではなく世間では認知されていなかった。
最強の柔道家・木村政彦は、プロ柔道などをやっていた。
1950年~1953年頃、木村政彦は、日本でプロ柔道に参加するが経営が破たんし、ハワイに渡りプロレス興行に参加したりしていた。
大相撲出身の力道山が日本でプロレスをはじめた。
力道山は、1950年に大相撲を廃業してからは、建設会社で仕事をしていたが、日本に遠征していたアメリカのプロレス団体の日系人プロレスラーであるハロルド坂田と知り合い、プロレスの存在を知り、プロレスラーになる事を決意する。
1952年ごろから、アメリカに渡りプロレス修業、大相撲時代の後援者の協力でプロレス団体を設立するなど、着々と準備を進めた。
1954年2月、カナダ出身でアメリカで活動していたプロレスラー"シャープ兄弟"を日本に招き、プロレス興行14連戦を敢行した。
1954.2.19-日本のプロレスの夜明け・・力道山・木村政彦 vs シャープ兄弟が大ヒット
プロレス興行14連戦は、日本中で大ヒットとなった。試合会場が連日満員となり、このころ始まったテレビでプロレスの試合が放映され、街頭テレビに大勢の人が集まった。
最高の黄金カードは「力道山・木村政彦vsシャープ兄弟」であった。あっというまにプロレスは日本中で大ブームとなった。これが日本のプロレスの夜明けといってよい。
▲街頭テレビの前に集まる大群衆
タッグパートナー木村政彦に不満がたまる。
力道山が遂行した、実質的に日本で初となるプロレス興行は、テレビ放送の効果もあり大ヒットとなった。
力道山が空手チョップでアメリカのレスラーに立ち向かう姿は、敗戦から立ち直ろうとしている日本の民衆にとって痛快であった。
黄金カードは、「力道山・木村政彦vsシャープ兄弟」であり、木村政彦がアメリカのレスラーの攻撃を耐え忍び、最後に力道山が空手チョップでアメリカのレスラーをバッタバッタとなぎ倒して勝つ、というのが定番であった。
力道山のタッグパートナーであった木村政彦は、柔道界で「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」といわれた史上最強の柔道家であった。
木村は、力道山の空手チョップが日本中で大喝采を受け、自分は引き立て役になっていることが不満であった。
自分は柔道界最強であり、大相撲で関脇どまりの力道山より下に思われることは屈辱であった。
▲木村政彦
1954.12.22-力道山vs木村政彦・・試合結果は力道山のKO勝ちだが、異様な雰囲気となった。
木村政彦は、「今までの試合はショーであり、真剣勝負であれば力道山に負けない」という主旨の発言を新聞紙上で公開し、力道山に一騎打ちで対戦を申し出た。
力道山はこれに応じ、1954年12月22日、「力道山vs木村政彦」が蔵前国技館で行われた。
▲鬼気迫る表情で木村に迫る力道山
試合の序盤は、両者とも組み合ったり投げを打ったりなどの、技の応酬をしていた。
しかし突然、力道山が木村に右拳のパンチを打ち、不意を突かれた木村がよろめき、力道山が張り手の滅多打ちをし、木村はマットに倒れた。
木村は、歯は折れ、瞼は切れ、流血した。試合は力道山のKO勝ちとなった。
木村は意識を失い、リングサイドにいた関係者が木村を起こそうとするが、木村は立ち上がることができなかった。
木村の師匠の牛島辰熊がリングに上がり、木村を兄のように慕っていた大山倍達が力道山に挑戦表明をしたが相手にされなかった。
リング上の異様な雰囲気に、観客は静まり返り、力道山の勝利を喝采を送るような雰囲気ではなかった。
力道山vs木村政彦・・高度な思考が要求される謎の試合
「力道山vs木村政彦」は、プロレスの存在とプロレスの楽しさを初めて知ったばかりの日本民衆に様々な波紋を広げた。
当時の日本はプロレスが始まったばかりで、プロレスラーの専門家がまだいないという状態であった。
人によっては「力士vs柔道」という見方をし、人によっては「日本一決定戦」「昭和の巌流島」という見方をした。
新聞紙上にもそのようなタイトルが躍った。
力道山は、「木村が急所を蹴ったので逆上してしまい、あのような結果になってしまったことを反省している」と述べた。
しかし、力道山と木村は事前に話し合い、適当に技の応酬をして引き分けに持ち込み、勝負をつけずに何試合もやろうということになっていたが、力道山が裏切ったという噂が絶えなかった。
日本の民衆は、「プロレスは真剣勝負なのか?ショーなのか?」という、高度な思考を求められた。
明暗を分けた力道山と木村政彦
力道山は、木村に勝利したことにより、完全にプロレス界のエースとなり、国民的スターとなっていった。
一方、木村政彦は、柔道界からも存在自体を認めないというような扱いを受け、世間から忘れられていった。