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645.06.12・・乙巳の変・大化の改新

■大化の改新

蘇我氏と聖徳太子が政権運営

6世紀末以降、蘇我馬子が権力を掌握し、聖徳太子が政権運営を担っていた。

その間、摂政として聖徳太子が様々な政治改革を行い、日本国の礎となる体制を構築した。

厩戸皇子死去

622年、摂政・聖徳太子が死去する。

聖徳太子の死去により、政権運営は蘇我氏の独断となった。

蘇我氏の横暴な政権運営

626年、蘇我馬子が死去し、子の蘇我蝦夷が権力を引き継いだ。

蘇我氏は天皇への敬意を持たず、皇位継承にも関与するようになり、横暴な政権運営が目立った。

643年11月、蘇我蝦夷が政権運営から退き、蘇我入鹿が政権を引き継いだ。

蘇我入鹿の横暴により上宮王家は滅亡

643年、蘇我入鹿は、蘇我氏の血を引く古人大兄皇子を天皇にしようと考えた。

山背大兄王が有力な皇位後継者であったため、蘇我入鹿にとっては山背大兄王が邪魔な存在となった。

12月16日、蘇我入鹿は、山背大兄王邸に軍勢をさしむけ、山背大兄王は自殺してしまった。

これにより聖徳太子の血を引く上宮王家は滅亡した。

蘇我入鹿暗殺計画

645年、蘇我入鹿の横暴に耐えかねた中臣鎌足と中大兄皇子は、蘇我入鹿の暗殺計画を綿密に練った。

蘇我一族の長老である蘇我倉山田・石川麻呂も、蘇我入鹿の横暴に耐えかね、暗殺計画に加わり、中大兄皇子の推薦で佐伯・子麻呂と葛城・稚犬養網田が加わった。

蘇我入鹿暗殺計画メンバー
中臣鎌足
中大兄皇子
蘇我倉山田・石川麻呂
佐伯・子麻呂
葛城・稚犬養網田

蘇我入鹿暗殺(乙巳の変)

6月12日、蘇我入鹿が出席する儀式が予定されていたため、蘇我入鹿暗殺が実行された。

儀式開始
皇極天皇の御臨席の下で儀式が始まった。
古人大兄皇子と蘇我入鹿が出席していた。
石川麻呂が上表文を読んでいる間、中大兄皇子、中臣鎌足、子麻呂、稚犬養網田は武器を持ち隠れていた。
(※皇極天皇は中大兄皇子の母である)

緊張でなかなか斬り込めず
子麻呂が先陣で切り込む予定だったが、なかなか出てこないため、石川麻呂は緊張で声が震えた。
蘇我入鹿に声が震える理由を問われ、天皇のお近くなので緊張しているからだと答えた。

蘇我入鹿に斬り込む
しびれを切らした中大兄皇子が先に現れ、それに続いて子麻呂と稚犬養網田が斬りかかった。

蘇我入鹿は抗議
蘇我入鹿が皇極天皇に「私に何の罪があるのでしょうか。お裁き下さい。」と抗議した。
中大兄皇子が「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と天皇に説明した。

天皇は無言
皇極天皇は何も言わず殿中へ退いた。

蘇我氏滅亡

古人大兄皇子は私邸に避難し、後に吉野に逃れ出家したが、9月に処刑された。

中大兄皇子は巨勢徳陀に指示し、蘇我蝦夷に味方する蘇我一族を説得し、戦意を喪失させた。

6月13日、蘇我蝦夷は味方がいなくなり、館に火を放ち自殺した。

これにより蘇我氏は滅びた。

新政権の誕生・政治改革

皇極天皇は、弟の軽皇子に譲位した。

軽皇子は孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子となった。

石川麻呂と中臣鎌足は要職に就き、天皇中心の政治体制とするべく政治改革が実行された。

大化の改新

645年の「乙巳の変」の後に誕生した新政権が政治改革を断行したことを、一般的に「大化の改新」といい、改革された主な内容は以下のようである。

◆天皇を中心とした政治体制
◆「日本」という国号の使用(670年頃)
◆「天皇」という称号の使用
◆地方に国司を置き統制する。

日本初の元号「大化」は、孝徳天皇から使用された。

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