ページリロード

Tanahashi Hiroshi[棚橋弘至](新日本)

■略歴

1998年2月、立命館大学在学中に新日本プロレス入門テストに合格する。

1998年4月、大学卒業後、新日本プロレスに入門する。

1999年10月、プロレスデビューする。

2001年6月、鈴木健想とタッグチーム「キング・オブ・ザ・ヒルズ」を結成する。

2002年6月、佐々木健介、鈴木健想、ブルーウルフと「スウィングロウズ」を結成するが、年内に解散する。

プロレスエース宣言「俺は!新日本のリングで!プロレスを!やります!」

2002年2月1日、当時は、プロレスが格闘技人気に押され、新日本から主力選手が流出し、新日本プロレスの観客動員が落ち込み大ピンチであった。アントニオ猪木がリング上に主力選手を集め、この現状をどう考えるかを一人一人に問うた。会社への不満や移籍した選手への怒りを示す選手が多かったが、棚橋弘至は「俺は!新日本のリングで!プロレスを!やります!」と宣言した。

交際女性から刺される(十年後にいじられる)

2002年11月、交際していた女性に刃物で刺され、重傷を負う。棚橋は解雇も覚悟したが、会社からは「スキャンダルをプラスにするぐらいに頑張れ」と言われ、治療して引き続きプロレスラーを続けることになった。この事件は十年後にいじられることになる。

試合復帰・U-30王者・新闘魂三銃士は自然消滅

2003年2月、試合に復帰し、若手の底上げのためU-30王座を提唱した。王座決定リーグ戦で勝ち抜き、初代王者となった。

2003年6月、吉江豊と組み、IWGPタッグ王座を獲得する。

2004年、将来のエース候補とされていた棚橋弘至、中邑真輔、柴田勝頼の3人が「新闘魂三銃士」となったが、3人ともこれには乗り気が無く、盛り上がらず、自然消滅した。

IWGP王者として君臨・矢野通と「髪の毛を切った切らないの抗争」

2006年7月15日、IWGP王座決定トーナメントを勝ち抜き、IWGPヘビー級王座を獲得する。

2007年8月、G1クライマックスで初優勝する。

2007年10月、結婚したことを公表した。

2009年1月4日、2008年に中邑真輔が武藤敬司にとられたIWGPヘビー級王座を奪還する。

2009年12月、プロレス大賞MVPを受賞する。

2010年、矢野通と「髪の毛を切った切らないの抗争」をする。

2011年、IWGPヘビー級王座10回防衛に成功し、プロレス大賞MVPを受賞する。(2012年1月まで11回防衛)

レインメーカーとの抗争・さらばIWGP

2012年1月4日、鈴木みのるに勝ちIWGPヘビー級王座を防衛した後、リングに上がって挑戦表明をしたオカダカズチカに「IWGPは遠いぞ。力で上がってこい」と言い、挑戦受諾は保留する。

2012年2月、短期間に実績を上げてIWGP挑戦権を獲得したオカダカズチカに敗れ、ベルトを獲られる。打撃技で歯を飛ばされるという屈辱を受ける。

2013年10月、IWGP王者のオカダカズチカに挑戦し敗れる。負けたらIWGP争いから離れることを宣言していたため、「さらばIWGP」と宣言する。

高橋裕二郎から十年前の事件をいじられる⇒まじめ返答

2012年10月8日、高橋裕二郎が棚橋からスリーカウントをとった実績をアピールし、IWGPへの挑戦表明をした。その際に、十年前の事件をいじった。

高橋裕二郎「おまえが俺に負けた過去は消せない。もう一つ、お前には十年前に消せない過去があったよなあ。おれも刺されるほど愛されてみてーなあ」

棚橋弘至「たしかに過去は消せない。みんな背負って生きていくんだ」

強引技で1・4東京ドームのメインイベンターに君臨・「さらばIWGP」の1年後いつのまにかIWGP王者

2013年11月、インターコンチネンタル王者中邑真輔への挑戦が決まる。3年連続で1・4東京ドームのメインを務めていた棚橋弘至は、「IWGPヘビー級選手権・オカダカズチカvs内藤哲也」と「インターコンチネンタル選手権・中邑真輔vs棚橋弘至」のどちらがメインにふさわしいかアンケートを実施するという強引技で、結果的に見事メインを勝ち取り、4年連続のメインを務めた。

2014年10月、AJスタイルズに勝ち、IWGPヘビー級王座史上最多となる7度目の戴冠を達成する。「さらばIWGP」宣言の1年後にいつの間にか王座に就くことに成功する。

オカダを泣かせることに成功・1年後にリベンジされる

2015年1月4日、東京ドームのメインで、IWGP挑戦者オカダカズチカを負かせて泣かせることに成功する。

2015年8月、G1クライマックスで2度目の優勝を達成する。

2016年1月4日、IWGP王者オカダカズチカに挑戦するが敗戦する。

内藤哲也との抗争・内藤哲也の「正論中の正論」により強引技は失敗

2016年11月、インターコンチネンタル王者・内藤哲也への挑戦が決定する。その後、インターコンチネンタル選手権をメインにするという強引技をねらったが、特にこれといった展開は無く、内藤哲也の「IWGPをメインにするべき」という「正論中の正論」により消滅した。

2017年1月4日、インターコンチネンタル王者・内藤哲也に挑戦したが敗れる。

2017年1月5日、中西学、田口隆祐と組み、BUSHI、EVIL、SANADAのNEVER無差別級6人タッグ王座に挑戦しベルトを獲得する。

インターコンチベルトを内藤から奪還、ベルトを修繕しツイート、その後なぜか新作ベルト登場

2017年6月11日、インターコンチネンタル王者・内藤哲也に挑戦し、テキサスクローバーホールドでギブアップさせベルトを奪還する。内藤哲也が壊したベルトを修繕したことをツイッターで公表したが、その後なぜか、まもなく新しいベルトが造られた。

■棚橋弘至のすごいところ=新しいファンを開拓

棚橋弘至は、2000年代初頭、新日本プロレスの観客が徐々に減り観客席の列が1列また1列と減らされていくのを間近で見ていた。棚橋弘至は、この原因を冷静に分析し、問題点を改善して新日本プロレスを再浮上させた。棚橋一人で全部やったわけではないであろうが、本人と周囲の関係者の発言から棚橋が中心となって進めたことは間違いない。

ストロングスタイルからの脱却

棚橋弘至は、道場に掲げられていた創設者アントニオ猪木の肖像画をはずしたという話は、すでによく知られている。ストロングスタイルに縛られているマイナス面を「ストロングスタイルの呪い」と名づけ、それからの脱却を目指した。

流血試合を減らし、プ女子を開拓

昔からプロレス会場の観客は大部分が男性であった。「プロレスは血を出すから怖い」と思っている女性が多かった。これを変えるため、流血試合を減らし、女性でも楽しめる試合を構築していった。

広報活動

積極的に広報活動を行った。イベント・テレビ・ラジオ・SNSなど種々の媒体で広報活動を行った。試合中継の地上波放送を行っているテレビ朝日以外のテレビ局にも新日本の選手が出演するようになった。

■獲得したタイトル

IWGPヘビー級王座
インターコンチネンタル王座
IWGP U-30無差別級王座
IWGPタッグ王座
NEVER無差別級6人タッグ王座
G1 CLIMAX 優勝(2007年・2015年)
NEW JAPAN CUP 優勝(2005年・2008年)
GHCタッグ王座 : 1回
CMLL世界タッグ王座
CMLL世界トリオ王座
カンペオン・ウニベルサル優勝(2013年)
プロレス大賞MVP(2009年・2011年・2014年・2018年)

【関連ワード】■2021G1-Bブロック‥■棚橋矢野‥

■サイトマップ

    トップページ

    タイトルとURLをコピーしました