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1192.07.12・・鎌倉幕府の成立

■鎌倉幕府の成立

平家が武家政権を構築

平家の棟梁・平清盛が、保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)において後白河天皇を勝利に導いた功績により、完全に権力を掌握した。

平清盛を中心とした平家による政権は、日本初の武家政権といえる。

平清盛は、1165年に大納言となり、1167年、武士としては初の太政大臣となり、これ以上はないほどの権力を掌握し栄華を誇った。

平家打倒の動き

1177年頃から、後白河法皇と平清盛の対立が表面化し、平家打倒を狙う勢力の動きが活発化した。

1180年4月、後白河法皇の第3皇子・以仁王は、源頼政と組み挙兵したが鎮圧された。

1180年8月、源頼朝が挙兵し鎌倉を本拠地とする。

1180年9月、木曾義仲(源義仲)が木曽(長野県)で挙兵し、北陸を経由して京都に向けて進軍し、平家軍を圧倒する勢いで京都に入る。

源氏が京都を掌握

1183年7月、木曽義仲が、平家を京都から西国に追い出し、京都を掌握する。

1183年10月、木曽義仲が京都の治安維持や西国の平家追討に手間取り、後白河法皇との連携に亀裂が生じる。

1183年11月、源義経が京都に入り、木曾義仲との争いが生じる。

1184年1月、木曽義仲が討ち死にし、源義経が京都を掌握する。

平家が滅亡し源氏の天下となる

1184年1月、源範頼と源義経の連合軍が平家軍を追討するため西方に進軍する。


【出典】http://www.kanagawa-shimbun.jp/file/pdf/kamakura_np/20120210kamakura_np.pdf

1184年2月、源義経が、一の谷の戦いで平家軍を圧倒し、平家軍は敗走し屋島に移った。

1185年3月、源義経が、屋島の戦いで平家軍を撃退し、平家軍は西方に逃げる。

1185年4月25日、壇之浦(山口県下関市)の戦いで、源義経が率いる源氏が平家を完全に滅ぼし、天下は源氏が支配することとなった。

頼朝と義経が対立

1185年4月、梶原景時が頼朝に書状を送り、以下のような義経の専横的行為を訴えた。

◆頼朝に無許可で任官を受けたこと
◆範頼の管轄へ越権行為を行ったこと
◆独断で東国武士を処罰したこと

1185年5月、「義経に従ってはならない」との命令が御家人に下される。

義経は鎌倉付近まで帰還し、頼朝への手紙(腰越状)で許しを請うが、頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、京都に帰ることを命じる。

義経が頼朝に反発し「関東に於いて怨みを成すの輩は、義経に属くべき」と言い放ち、頼朝は義経の所領を没収する。

1185年9月、新宮十郎行家を追討する命が下されたが、義経が新宮十郎行家の討伐に消極的であると頼朝に伝わったため、頼朝は義経討伐を決定する。

その後、義経は奥州・藤原秀衡に保護されていたが、秀衡が亡くなり、泰衡が家督を相続すると、頼朝の圧力に屈し、1189年4月、義経がいる衣川館を襲撃して自害させた。

政治体制の確立

1190年11月、源頼朝は後白河法皇に拝謁し、荘園領主の家政機関たる政所の設置を認めさせた。

1192年、源頼朝が征夷大将軍に任じられたことにより、公式に日本の統治権を得る。

これにより、武家政権「鎌倉幕府」が成立した。

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