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Kawada Toshiaki[川田利明]


■川田利明‥
◆栃木県出身
◆1963年12月8日生
◆183cm110kg
◆全日本→無所属

 




略歴

足利工業大学付属高校でレスリング国体優勝

足利工業大学付属高等学校でレスリングに励み、国体優勝の実績をあげる。高校では1年先輩に三沢光晴がいる。

全日本プロレスからプロレスデビュー

1982年3月、高校卒業後、三沢光晴の誘いで全日本プロレスに入団する。

1982年10月、プロレスデビューする。デビューから205連敗を喫する。

1985年、アメリカ修行に出る。

1987年、帰国し、サムソン冬木と組み、タッグチーム「フットルース」を結成する。また、冬木とともに天龍源一郎のチーム「レボリューション」に参加する。

1988年3月、サムソン冬木と組み、アジアタッグ王座を獲得する。

SWSへの大量移籍のときは全日本に残り「超世代軍」を結成

1990年、新団体SWS旗揚げに参加した選手が大勢離脱したときは、川田は全日本プロレスに残った。

1990年、三沢光晴、田上明、小橋建太らとともに「超世代軍」を結成する。

1991年7月、三沢光晴と組み、世界タッグ王座を獲得する。

1992年10月、旗揚げ20周年記念大会で、三沢光晴と三冠ヘビー級選手権で対戦する。

四天王時代

1993年、田上明と「聖鬼軍」を結成し、三沢光晴・小橋建太と激しい試合内容で対決するようになる。このころから、三沢光晴、小橋建太、田上明とともに「四天王」と呼ばれるようになる。

1994年、チャンピオンカーニバルで優勝する。

全日本プロレス初の東京ドーム大会で三沢に勝利

1998年5月1日、三冠ヘビー級選手権で三沢光晴に勝利し、「プロレス人生で一番幸せです。今が!」と述べる。

NOAHへの大量離脱のときも全日本に残り、佐々木健介と対決

1999年1月、ジャイアント馬場の死去に伴い、三沢光晴が社長に就任したが、馬場夫人と考えが合わなかった。2000年8月、三沢は全日本を離脱し新団体NOAHを旗揚げした。その際、大量の選手が三沢と行動を共にしたが、川田は渕正信、マウナケア・モスマン(太陽ケア)とともに全日本に残った。

2000年10月9日、新日本プロレス・東京ドーム大会でIWGPヘビー級王者・佐々木健介と対戦し勝利する。佐々木は、IWGP王座を返上する。

2001年1月4日、IWGP王者決定トーナメント決勝で佐々木健介に敗れる。

2002年2月、三冠ヘビー級選手権で武藤敬司に勝利する。

2004年2月、三冠ヘビー級選手権で橋本真也に勝利する。

ハッスルKとなる

2004年、「ハッスル」に参戦し、「ハッスルK」となる。高田総統、小川直也、「インリンらとファイティングオペラ」を演じる。

無所属となる

2005年3月、無所属であることを宣言する。

2005年4月、NOAH東京ドーム大会で三沢光晴と対戦する。試合後、事前の取り決めをせずマイクアピールをするという、三沢にとってはやってはいけないことをやってしまったため、この後はNOAH参戦や三沢との対戦は無かった。

2005年、ハッスル軍を裏切り、高田モンスター軍に寝返る。

2007年1月4日、東京ドーム大会で中邑真輔と対戦し勝利する。

三沢光晴追悼興行に出場

2009年6月13日、三沢光晴が試合中の事故で亡くなり、10月3日、三沢光晴追悼興行に参戦した。

 

獲得したタイトル

三冠ヘビー級王座
世界タッグ王座
アジアタッグ王座
チャンピオンカーニバル優勝(1994年、1997年)
世界ヘビー級王座(ZERO1)

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