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ジャイアントババ[ジャイアント馬場](1938-1999)全日本プロレス創設者「東洋の巨人」

■読売巨人軍に入団

1955年1月、三条実業高校を2年で中退し、プロ野球・読売巨人軍に投手として入団する。

二軍では好成績だったが、一軍では3度しか登板できなかった。


▲巨人軍時代の馬場

1959年、読売巨人軍を解雇される。

1960年1月、大洋ホエールズに入団するチャンスがあったが、怪我が長引いたためプロ野球選手を断念する。

※ちなみにジャイアント馬場は、記録によると野球選手時代の身長は200cmであり、歴代の日本人プロ野球選手で最も長身ということになる。野球選手時代は10代だったため、さらに身長が伸び、プロレスラー時代のプロフィールでは209cmとなっている。日本人プロ野球選手の第2位は、198cmの藤浪晋太郎(阪神タイガース)だそうである。

■力道山に弟子入りしプロレスラーに転身

1960年4月、自分の大きな体を活かしたスポーツ選手になろうと決意し、巨人軍時代から面識があった力道山に会うため日本プロレスを訪ね、弟子入りを志願した。

力道山からテスト(ヒンズースクワット100回)を受け、その場で入門が決定した。ントニオ猪木も同時期に入門している。


▲同期入門のアントニオ猪木

1960年9月30日、プロレスデビューする。

1961年、アメリカ修行をし、短期間でアメリカのメジャー団体のメインイベンタ-クラスに成長した。

アメリカに滞在中は、マネージャーのグレート東郷とコーチのフレッドアトキンスから多くを学んだ。

1963年12月、力道山が死去し帰国する。グレート東郷から高年俸契約によるアメリカ定住を進められたが断った。

1964年には、再び渡米し、NWA、WWWF、WWAという当時の世界3大タイトルに挑戦した。これは誰しもなしえなかった大金字塔であり、馬場の世界的名声を構築した。

日本プロレスのエースとなる。

1964年5月、豊登と組み、アジアタッグ王座を獲得する。力道山亡き後の日本プロレスで豊登と並ぶ2大エースとなった。

1965年11月、インターナショナルヘビー級王座を獲得し、世界の超一流レスラーを相手に防衛回数を重ねた。これにより、完全に日本プロレスのエースとなった。

1967年10月、アントニオ猪木と組み、インターナショナルタッグ王座を獲得する。アントニオ猪木とのタッグチームは「BI砲」と呼ばれ、圧倒的な勝率を誇り、日本プロレス黄金期の看板タッグチームとなった。

馬場と猪木が独立・馬場は全日本プロレスを創設

1972年3月、前年12月に日本プロレスへのクーデターを企てたとみなされ追放されたアントニオ猪木が新日本プロレスを創設する。

1972年7月、馬場は長年自分の試合を放送していた日本テレビに恩義を感じていたが、日本プロレスがNET(テレビ朝日)でも馬場の試合を放送することにしたことから、日本プロレスを退社し、新団体を創設する。

1972年10月22日、創設した全日本プロレスの旗揚げ戦を開催する。

全日本プロレスの社長兼エースとして活躍、NWAチャンピオンとなる。

全日本プロレス創設後、団体の看板となるシングル王座を創設するため、世界の強豪レスラーを集め、全日本プロレス認定世界ヘビー級王座を決定するリーグ戦を実施した。

馬場は合計10戦で8勝0敗2引き分けの成績をおさめ、馬場が初代王者として認定された。この王座はPWFヘビー級王座(三冠ヘビー級王座のうちの一つ)となった。

1974年12月、当時世界で最も権威があるベルトといわれたNWA世界ヘビー級王座を獲得する。1979年と1980年にもNWAを戴冠している。

1980年4月、ザ・シークと対戦した試合に出場したことにより、通算3000試合出場を達成した(欠場は1回もなかった)。通算3000試合であることを試合後に聞かされた馬場は、「先に知っていれば、もっとまともな相手を選んでいた」と述べた。

1981年12月、ブルーザーブロディ・ジミースヌーカのセコンドとして試合会場に来ていたスタンハンセンと乱闘し、スタンハンセンとの抗争がスタートする。

1984年4月、スタンハンセンとブルーザーブロディからハイジャックパイルドライバーを受けて首を痛め、連続無欠場記録がストップした。

1985年7月、スタンハンセンにPWFヘビー級王座を獲られてから、タイトル争いには加わらなくなった。

1998年12月5日までリングに上がり続け、前座で明るく楽しいプロレスを続けた。

1999年1月31日、大腸癌・肝不全により死去した。61歳であった。

■獲得したタイトル

NWA世界ヘビー級王座
インターナショナル・ヘビー級王座
PWFヘビー級王座
アジアヘビー級王座
インターナショナル・タッグ王座
アジアタッグ王座
NWA世界タッグ
チャンピオン・カーニバル優勝(1973年、1974年、1975年、1977年、1978年、1981年、1982年)

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