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Riki Douzan[力道山](1924-1963)・・日本のプロレスを創った人

■プロフィール


■力道山‥
◆長崎県出身(出生地は日本統治時代の朝鮮)
◆1924年11月14日生
◆176cm116kg
◆二所ノ関部屋→日本プロレス

■日本統治時代の朝鮮でスカウトされ大相撲に入門

1940年、日本統治時代の朝鮮で、力道山が相撲の大会に出場していたところ、二所ノ関部屋にスカウトされた。
母親は反対したが親方に説得された。

1940年、来日し、二所ノ関部屋に入門し、名前は「百田光浩」、出身地は「長崎県大村市」とされた。

力道山はこの出自を終生明かさなかった。次男の百田光雄は、父の力道山の死後にこのことを知ったという。


▲大相撲時代の力道山

大相撲で関脇まで昇進するが突然廃業

1949年5月場所で関脇に昇進する。

1950年9月、相撲界の差別やトラブルなどから、突然髷を切り廃業する。

■そのころの日本には、継続的で確立したプロレスはなかった

1950年頃、日本にはプロレスといえるものはなかった。

柔道家がプロとなり興行を行ったり、女子プロレスのようなもの(今でいうキャッとファイトのようなもの)はあったが、継続的ではなく世間では認知されていなかった。

力道山とプロレスとの出会い

力道山は、大相撲廃業後は建設会社で仕事をしていたが、ふとしたことから、日本に遠征していたアメリカのプロレス団体の日系人プロレスラーであるハロルド坂田と知り合う。

この出会いが、力道山にプロレスの存在を知らしめることになる。

力道山は、ハロルド坂田の勧めで、プロレスラーになることを決意し、アメリカ人プロレスラーから指導を受けるようになる。

日本でプロレスをはじめる。

1952年2月、アメリカに渡り、日系人レスラー沖識名からプロレスの指導を受ける。

1953年、大相撲時代からの後援者などから協力を得て、日本プロレス協会を設立する。

1954年2月、アメリカで活動していたカナダ出身の兄弟プロレスラー「シャープ兄弟」を日本に招き、プロレス興行14連戦を敢行した。

■1954.2.19「日本のプロレスの夜明け」力道山・木村政彦 vs シャープ兄弟が大ヒット

プロレス興行14連戦は、日本中で大ヒットとなった。

試合会場が連日満員となり、このころ始まったテレビでプロレスの試合が放映され、街頭テレビに大勢の人が集まった。

最高の黄金カードは「力道山・木村政彦vsシャープ兄弟」であった。

あっというまにプロレスは日本中で大ブームとなった。

これが日本のプロレスの夜明けといってよいであろう。


▲街頭テレビの前に集まる大群衆

力道山の「空手チョップ」は日本人にとって痛快であった

力道山が遂行した、実質的に日本で初となるプロレス興行は、テレビ放送の効果もあり大ヒットとなった。

力道山が空手チョップでアメリカのレスラーに立ち向かう姿は、敗戦から立ち直ろうとしている日本の民衆にとって痛快であった。

黄金カード「力道山・木村政彦vsシャープ兄弟」

木村政彦がアメリカのレスラーの攻撃を耐え忍び、最後に力道山が空手チョップでアメリカのレスラーをバッタバッタとなぎ倒して勝つ、というのが定番であった。

■史上最強の柔道家・木村政彦に不満がたまる。

力道山のタッグパートナーであった木村政彦は、柔道界で「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」といわれた史上最強の柔道家であった。

木村は、力道山の空手チョップが日本中で大喝采を受け、自分は引き立て役になっていることが不満であった。

自分は柔道界最強であり、大相撲で関脇どまりの力道山より下に思われることは屈辱であった。


▲木村政彦

1954.12.22-力道山vs木村政彦

木村政彦は、「今までの試合はショーであり、真剣勝負であれば力道山に負けない」という主旨の発言を新聞紙上で公開し、力道山に一騎打ちで対戦を申し出た。

力道山はこれに応じ、1954年12月22日、「力道山vs木村政彦」が蔵前国技館で行われた。

試合結果は力道山のKO勝ちだが、拍手喝采とはならなかった

試合の序盤は、両者とも組み合ったり投げを打ったりなどの、技の応酬をしていた。

しかし突然、力道山が木村に右拳のパンチを打ち、不意を突かれた木村がよろめき、力道山が張り手の滅多打ちをし、木村はマットに倒れた。

木村は、歯は折れ、瞼は切れ、流血した。

試合は力道山のKO勝ちとなった。

試合後は異様な雰囲気となった

木村は意識を失い、リングサイドにいた関係者が木村を起こそうとするが、木村は立ち上がることができなかった。

木村の師匠の牛島辰熊がリングに上がり、木村を兄のように慕っていた大山倍達が力道山に挑戦表明をしたが相手にされなかった。

リング上の異様な雰囲気に、観客は静まり返り、力道山の勝利を喝采を送るような雰囲気ではなかった。


▲鬼気迫る表情で木村に迫る力道山

「力道山vs木村政彦」高度な思考が要求される謎の試合

「力道山vs木村政彦」は、プロレスの存在とプロレスの楽しさを初めて知ったばかりの日本民衆に様々な波紋を広げた。

当時の日本はプロレスが始まったばかりで、プロレスの知識が全く無い状態であった。

人によっては「力士vs柔道」という見方をし、人によっては「日本一決定戦」「昭和の巌流島」という見方をした。

新聞紙上にもそのようなタイトルが躍った。

いろいろな噂が飛び交った

力道山は、「木村が急所を蹴ったので逆上してしまい、あのような結果になってしまったことを反省している」と述べた。

しかし、力道山と木村は事前に話し合い、適当に技の応酬をして引き分けに持ち込み何試合もやる予定だったのを力道山が裏切った、という噂が絶えなかった。

日本の民衆は、「プロレスは真剣勝負なのか?ショーなのか?」という、高度な思考を求められた。

■明暗を分けた力道山と木村政彦

力道山は、木村に勝利したことにより、完全にプロレス界のエースとなり、国民的スターとなっていった。

一方、木村政彦は、柔道界からも存在自体を認めないというような扱いを受け、世間から忘れられていった。

力道山はプロレスで数々の称号を得る。馬場と猪木を輩出する。

1955年、アジアヘビー級王座を獲得する。

1958年、「鉄人」ルー・テーズに勝利し、インターナショナルヘビー級王座を獲得する。

1960年、豊登と組み、アジアタッグ王座を獲得する。

1960年、ジャイアント馬場とアントニオ猪木を入門させデビューさせる。

「力道山vsザ・デストロイヤー」が大ヒット

1963年、東京体育館で行われたWWA世界ヘビー級選手権「力道山 vs ザ・デストロイヤー」は、驚異的なテレビ視聴率64.0%を記録した。

試合は力道山がデストロイヤーにかけられた4の字固めを耐え抜き、両者続行不可能・引き分けとなった。

試合後は両者とも絡み合った足を自分で解けなかった。

■暴漢に刺され死去

1963年12月8日、暴力団員にナイフで刺され、病院に入院し治療を受けたが12月15日に死去した。

39歳であった。

■力道山の功績

日本のプロレスそのものを創った。

1954年までの日本には、プロレスらしきものは多少あったものの、継続的に行われるプロレス試合を確立したのは力道山が初めてであった。

力道山が、アメリカ修行をするのと並行して人脈を築き、アメリカのプロレスラーを日本に招き、「力道山・木村政彦 vs シャープ兄弟」という黄金カードを実現させ、大ヒットさせた。

テレビの力を理解し、効果的に利用した。

力道山は、アメリカでプロレスが放映され民衆に根付いていることをすでにわかっていた。

日本では、テレビ放送が始まったばかりであり、民衆にはまだまだ広まっていなかった。

力道山はテレビ局にプロレス放映をするべきだと主張し、プロレス中継を実現させた。

力道山が空手チョップで白人を倒す姿が街頭テレビに映し出されると、あっというまに人だかりができた。

力道山は自伝の中で、「プロレスが大衆に広まったのはテレビのおかげだが、プロレスのおかげでテレビが広まった面もあるという自負もある」(主意)と述べている。

プロレスの定番を創った。

プロレス草創期の日本では、民衆は敗戦のショックから必死に立ち上がろうとしていた。

そこに、プロレスという、アメリカに負けたショックを癒す最高の娯楽が現れた。

力道山が白人を空手チョップでなぎ倒す姿は痛快であり、日本人に自信を与えた。

これから日本では「日本人 vs 外国人」という図式が定番となった。

プロレスで日本人が外国人に立ち向かう姿を見ることが最高の娯楽であった。

ジャイアント馬場とアントニオ猪木を育成した。

力道山は、プロ野球選手からプロレス転向を希望したジャイアント馬場と、ブラジルでスカウトしたアントニオ猪木を入門させ、厳しく指導し育成した。

もしも力道山がいなかったら日本にプロレスが存在しなかったし、馬場と猪木がいなかったら、今日のプロレスもなかった。

■獲得したタイトル

NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版)
WWA世界ヘビー級王座(ロサンゼルス版)
日本ヘビー級王座
インターナショナル・ヘビー級王座
アジアヘビー級王座
アジアタッグ王座
ハワイ太平洋タッグ王座
太平洋タッグ王座
NWA殿堂
WWE殿堂(レガシー部門)

■サイトマップ

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