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キムラマサヒコ-木村政彦(1917-1993)・・「木村の前に木村なし木村の後に木村なし」

 

▼熊本県出身
▼1917年9月10日生
▼170cm85kg
▼拓殖大学→フリー→プロ柔道・プロレス→フリー→拓殖大学

木村政彦の略歴

最強柔道家となる

10歳の時から柔道を始め、16歳のころには講道館四段を取得する。

1936年、拓大予科の大将として、拓大予科を高専柔道大会で全国優勝に導く。

1937年、日本選手権(全日本柔道選手権)で優勝する。この後も連勝を続ける。

1942年、兵役につく。

終戦後も、柔道では無敗であり、全日本選手権は13回優勝を達成した。

プロ柔道・プロレスに転向

1950年2月、プロ柔道に参加する。

1950年7月頃、プロ柔道が不振で給料未払状態になったため、ハワイへ渡航し巡業を行う。

1951年、ブラジルへ渡り、プロレス興行や柔道指導などを行う。

エリオ・グレイシーと対戦

1951年9月、ブラジリアン柔術の使い手エリオ・グレイシー(ヒクソングレイシーの父)と対戦し、腕緘で勝利する。木村はエリオが腕が折れてもギブアップしなかった執念に感服する。「試合には勝ったが、勝負への執念は私の完敗であった」と述べる。

プロレスラーに転身し力道山とタッグを組む

1954年2月19日から始まった、日本初の本格的なプロレス興行14連戦において、木村は主に力道山のタッグパートナーとして出場した。日本初のプロレス興行は大ヒットとなった。

1954年12月22日・力道山と歴史的な一騎打ちに挑む

木村は、出場したプロレス興行が大ヒットしたものの、自分は力道山の引き立て役が多く、力道山の人気が突出し国民的スーパースターになったことが大変不満であった。木村は、「今までの試合はショーであり、真剣勝負ならば力道山に負けない」という主旨の発言をし、世間は大騒ぎとなった。

1954年12月22日、世紀の一戦「力道山 vs 木村政彦」が蔵前国技館で行われた。

木村政彦が謎のKO負け

試合の序盤は、両者とも組み合ったり投げを打ったりなどの、技の応酬をしていた。しかし突然、力道山が木村に右拳のパンチを打ち、不意を突かれた木村がよろめき、力道山が張り手の滅多打ちをし、木村はマットに倒れた。木村は、歯は折れ、瞼は切れ、流血した。試合は力道山のKO勝ちとなった。

木村は意識を失い、リングサイドにいた関係者が木村を起こそうとするが、木村は立ち上がることができなかった。木村の師匠の牛島辰熊がリングに上がり、木村を兄のように慕っていた大山倍達が力道山に挑戦表明をしたが相手にされなかった。

リング上の異様な雰囲気に、観客は静まり返り、力道山の勝利を喝采を送るような雰囲気ではなかった。

なぜあのような結果になったのか。様々な憶測が飛び交った。

力道山は、「木村が急所を蹴ったので逆上してしまい、あのような結果になってしまったことを反省している」と述べた。

木村側は、「適当に技の応酬をして引き分けに持ち込み、勝負をつけずに何試合もやろうということになっていた」と証言した。

世間では、力道山が引き分けにする約束を裏切り、突然木村をKOしたという噂が絶えなかった。

この一戦から木村と力道山は明暗を分けた。

木村政彦は、力道山に負けた一戦により、柔道界からも存在自体を認めないというような扱いを受け、世間から忘れられていった。

力道山は、木村に勝利したことにより、完全にプロレス界のエースとなり、国民的スターとなっていった。

柔道界に戻り後輩を育成する。

1961年、母校である拓殖大学の柔道部監督に就任する。

1966年、全日本学生柔道優勝大会で拓殖大学を優勝に導く。

1983年、拓殖大学柔道部監督を勇退する。

1993年4月18日、死去する。75歳であった。

木村政彦の最強伝説

木村政彦=史上最強

柔道界では「木村政彦=史上最強」という評価が一般的である。全日本選手権を9連覇した山下泰裕や東京オリンピック金メダリストのアントン・ヘーシンクとしばしば比較されるが、たいていの結論は「木村の方が強い。比べ物にならない。」となる。

50歳代は拓殖大学の監督だったが、現役バリバリの選手でも、寝技では木村に全く歯が立たなかったという。

驚異的な練習量・驚異的なパワー・師匠を涼ませるために畳で扇ぐ

木村の驚異的な強さを示した逸話を以下に記す。

◆師匠が暑いので扇いでくれと言うと、畳で扇いだ。

◆練習量は毎日10時間を超え、乱取りを毎日100本こなし、バーベルを使ったトレーニングを毎日1000回、巻き藁突きを毎日1000回こなした。

◆100kgのベンチプレスを1時間1セットで何度も繰り返した。その後の仕上げに腕立て伏せを1000回した。

◆大木に帯をまいて毎日1000回打込みをし、ついに大木が枯れてしまった。

◆空手の道場にも通い、打撃技を習得し、師範代を務めるほどだった。ボクシング習得にも挑戦した。

◆障子の端を持って潰すことができた。両腕を延ばして100kgのバーベルを肩から手首まで転がすことができた。

◆木村の大外刈りで失神者が続出し、木村の腕緘で脱臼者が続出した。出稽古では、大外刈りと腕緘は禁止された。

◆試合前夜には短刀で切腹の練習をしてから試合に臨んだ。「負けたら腹を切る」という覚悟で勝負に挑んだ。最終的に15年間無敗でプロに転向したため、切腹はしなかった。

ゆかりのひと


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