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Maeda Mitsuyo[前田光世](1878-1941)(コンデ・コマ)


■前田光世‥
◆青森県弘前市出身(旧:船沢村→現:弘前市)
◆1878年12月18日生
◆164cm70kg
◆講道館→柔道使節団(アメリカ)→柔術指導者(ブラジル)
◆ブラジルにグレーシー柔術をもたらした

略歴

1878年、青森県中津軽郡船沢村(現:弘前市)で生まれる。

1895年、上京して柔道を始める。

1897年6月、講道館に入門する。

1898年、15人抜きを達成し、初段に認定される。翌年には二段に昇進する。

 

アメリカ・メキシコ・ヨーロッパで柔道家として活躍

1904年11月、柔道施設の一員として渡米する。滞在費稼ぎと柔道普及のためにアメリカ中で様々な格闘家と異種格闘技戦を行う。

その後、イギリス、ベルギー、キューバ、メキシコで転戦し無敗であった。レスリングで敗れた記録は残っているが、柔術を駆使した異種格闘技戦では無敗であった。

 

ブラジルに定住し、グレーシー一族に柔術をもたらす。

1915年、ブラジルで「アマゾン一の勇者」を決める大会に飛び入り参加して優勝する。そのころから前田はブラジルの地に魅力を感じ、定住するようになる。

ブラジルでは、移住してきたガスタオン・グレーシーから頼まれ、子供の一人であるカ―ロス・グレーシーに柔術を指導した。その技術をカーロス・グレーシーと弟のエリオ・グレーシーが技術体系として確立させたのが「グレーシー柔術」である。

エリオ・グレーシーは、1951年に日本の最強柔道家・木村政彦と対戦し、木村政彦からその戦いぶりを絶賛された。また、息子のヒクソンやホイスらを育て、1990年代にグレーシー旋風をまきおこした。

 

ブラジルに帰化・ブラジルで生涯を閉じる

1930年、イギリス時代から名乗っていた「コンデ・コマ」を本名とし、ブラジルに帰化し、フランス大使の娘と結婚する。

1941年11月28日、入植先のアマゾンで死去する。

故郷の弘前市では、前田の功績を称えるため、桜の名所として有名な弘前公園に石碑が建てられている。



▲前田光世の石碑(弘前公園・追手門付近のテニスコート付近)

前田光世の強さ=腰の強さ・腰技

前田光世は、青森県弘前市(旧:船沢村)で生まれ育った。父の了は相撲の強豪であり、光世は少年のころから父と相撲をとり続けたことにより、強靭な腰が身についた。

父の教えは以下のようであった。
「相撲は押しの一手で、ただいなされぬ用心をせよ。それには敵の胸へ当てて、左・右・左・右と代わる代わるビタビタと押さえるように攻めて行く。そうすれば、敵はいなそうたってその暇がない。」

講道館時代に頭角を現したころは、腰の強さに定評があった。先輩の横山作次郎から「手は遊ばせておいて腰で投げる」という腰技のこつを教わり、腰技の使い手となった。

※『不敗の格闘王 前田光世伝』より抜粋引用

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