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木村政彦がエリオ・グレイシーを讃えた言葉「試合には勝ったが勝負への執念は私の完敗であった」

■木村政彦・エリオグレーシー‥




最強の柔道家・木村政彦がブラジル遠征に参加

木村政彦は、全日本柔道選手権で13回優勝などの実績を誇り、圧倒的な強さを誇った最強の柔道家であった。

木村政彦が史上最強であると評価する人も多く、
「木村の前に木村なし木村の後に木村なし」
と言われている。


▲木村政彦

木村は、1930年代中頃から圧倒的な強さで戦前から戦後まで柔道では無敗であった。

1950年頃から、プロ柔道やプロレスの興行で海外遠征を行い、1951年にはブラジル遠征に参加していた。

 

前田光世からブラジルに伝えられた技術を基にした「グレイシー柔術」

1910年代、日本人の柔術家・前田光世が、ブラジルを転戦して行った異種格闘技戦で連戦連勝であり英雄となっていた。

その前田が、ガスタオン・グレイシーから息子に柔術の指導をするように頼まれ、息子たちに柔術の技術や精神を指導した。

その技術を基に技術体系として確立されたのがグレイシー一族の「グレイシー柔術」であった。

 

グレイシー柔術を発展させたエリオ・グレイシー

エリオ・グレイシーは、ブラジルでグレイシー柔術の発展に寄与した中心人物であった。

グレイシー柔術の技術体系を構築し、「グレイシー柔術アカデミー」総裁を務めた。

1930年代から約20年間、無敗であった。


▲エリオ・グレイシー

 

木村政彦 vs エリオ・グレイシー

日本からやってきた最強の柔道家・木村政彦とブラジルの英雄・エリオグレイシーの対決の機会が訪れた。

1951年10月23日、ブラジル・リオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで3万人の観衆の中、木村政彦とエリオ・グレイシーが対戦した。

試合は、木村が腕緘(うでがらみ=アームロック=キムラロック)を極め、エリオのセコンドだった兄カ―ロスからのタオル投入により木村が勝った。

エリオは腕緘を極められ意識が朦朧とし腕が外れているような状況だったが、自分からはギブアップしなかった。


▲腕緘を極める木村政彦

 

木村がエリオの闘魂を讃えた

これについて木村は
「何という闘魂の持ち主であろう。腕が折れ、骨が砕けても闘う。試合には勝ったが、勝負への執念は…私の完敗であった」
とエリオを称えた。

エリオグレイシーは、木村の圧倒的な強さに敬意を払い、腕緘を「キムラロック」と名付けた。

 


▲健闘を称えあう木村政彦とエリオ・グレイシー

 

何が木村の心に響いたのか

木村政彦は、柔道の選手だった時代には、1日10時間を超える練習を続け、15年間不敗であった。

木村の練習量の多さや圧倒的強さは数々の伝説を生んだ。

「負けたら腹を切る」と決意し、試合前夜は短刀で切腹の練習をし、決死の覚悟で勝負に挑んだといわれている。

無敗のままでプロに転向したため、結果的に切腹はしなかった。

木村の「負けたら腹を切る」という決死の覚悟で試合に挑む精神が、エリオの勝負に屈しない精神と通じたのであろう。

「試合には勝ったが勝負への執念は私の完敗であった」

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